3. 繰下げが「損」になるケース

繰下げは制度上のメリットが大きい一方、選択の際に確認しておきたい制約もあります。FPとして相談を受けてきた場面からも、次の3つは特に注意が必要と感じています。

3.1 加給年金の対象期間中は繰下げしにくい

加給年金(配偶者や子への上乗せ支給)は、繰下げ待機中は支給されません。加給年金の対象になっている方は、繰下げ期間中に加給年金分の年収を逃す計算になります。配偶者の加給年金額は令和8年度で特別加算を含めて年42万3700円と大きいため、繰下げのメリットと相殺されるケースがあります。

3.2 在職老齢年金で支給停止対象の場合

65歳以上70歳未満で厚生年金を受給しながら働く場合、基本月額と総報酬月額相当額の合計が令和8年度の支給停止調整額(月65万円)を超えると、超過分の2分の1が支給停止となります。停止された分は繰下げによる増額計算の対象になりません。

3.3 遺族年金の受給資格に影響することも

繰下げ待機中に死亡した場合、繰下げによる増額は反映されず、通常の年金額での未支給年金が遺族に支払われます。遺族厚生年金の額も、繰下げによる増額を反映せず本来の年金額をもとに計算されます。繰下げのメリットは、本人が長く受け取った場合にはじめて表れる構造です。

村岸 理美

繰下げは強力な増額制度ですが、加給年金・遺族年金・在職老齢年金との併用制限があります。単純な増額率で判断せず、家計全体のキャッシュフローと合わせた個別シミュレーションが判断のポイントです。

4. 【FPの視点】繰下げを検討する際の判断フレーム

FP1級・CFP®の立場から、繰下げ判断のフレームワークを整理していきます。制度の選択肢を最大化するには、健康寿命・家計余力・世帯構造の3軸で検討していく必要があります。

4.1 軸1|健康寿命と平均寿命の見立て

損益分岐点は繰下げ開始から11〜12年後です。厚生労働省「令和6年簡易生命表」によると、65歳の平均余命は男性19.52年・女性24.38年で、健康寿命はいずれも数年短くなります。長生きへの備えとして繰下げは有効ですが、健康状態次第で判断が変わる点も踏まえてください。

4.2 軸2|繰下げ期間中の生活費確保

繰下げ待機中は年金収入がゼロになります。貯蓄取り崩し・給与収入・企業年金・iDeCoなど、他の収入源で生活費を賄える必要があります。5年繰下げで15万円×12ヶ月×5年=900万円分の代替資金が必要な計算です。この金額を先に確保できるかが、判断の第一関門です。

4.3 軸3|世帯単位で見た組み合わせ設計

夫婦別々に繰下げ時期を選べる点も活用できます。片方は65歳から受給しつつ、もう片方は70歳まで繰下げるなど、世帯単位で家計のキャッシュフローを平準化する組み合わせが可能です。加給年金の対象期間も踏まえたシミュレーションを行うと、より精緻な判断ができます。

5. 【落とし穴】繰下げ判断で見落としやすい制度連動

繰下げ受給には、他の制度との連動で見落としやすいポイントがあります。判断の前に確認しておきたい項目です。

5.1 確定申告と社会保険料への影響

繰下げにより年金額が増えると、公的年金等控除後の所得が上がり、所得税・住民税や介護保険料・後期高齢者医療保険料も上がる可能性があります。手取りベースでの増額幅は、額面の84%増より小さくなる点を確認しておく必要があります。

5.2 障害基礎年金・寡婦年金との併給制限

繰下げ待機中に障害基礎年金や寡婦年金を受給する権利が発生した場合、繰下げの選択が制限されることがあります。特に65歳前後で受給権が発生する可能性がある方は、事前に年金事務所で確認しておくと安心です。

6. 【対応策】繰下げ判断の3ステップ

繰下げの判断は、次の3ステップで進めていくのが実務的です。一次資料と個別試算を組み合わせることで、家計に合う選択肢が見えてきます。

6.1 ステップ1|ねんきんネットで受給開始年齢別の試算

ねんきんネットには受給開始年齢を変えたシミュレーション機能があります。60歳・65歳・70歳・75歳の各年齢で年金額がどう変わるかを、書面ベースで確認できます。加給年金の対象や在職の予定も反映して試算するのが実務的です。

6.2 ステップ2|家計のキャッシュフロー表を作成

試算結果と、退職後の生活費・貯蓄取り崩しペース・想定される医療費・介護費を並べて、キャッシュフロー表を作成します。繰下げ期間中の生活費が確保できるかを、書面で確認していきます。

6.3 ステップ3|年金事務所・FPで個別相談

試算結果をもとに、年金事務所での個別試算・ファイナンシャル・プランナーへの相談を組み合わせるのが有効です。加給年金・遺族年金・障害年金の受給権とあわせた総合的な判断が、老後の可処分所得を最大化する近道です。

7. まとめにかえて

繰下げ受給は、1ヶ月0.7%×最大120ヶ月で最大84%増と、他の年金制度にはない強力な選択肢です。ただし、加給年金・遺族年金・在職老齢年金・税金・社会保険料との連動があるため、単純な増額率だけで判断するのは避けたい制度です。

ねんきんネットの試算と家計のキャッシュフロー表を組み合わせて、健康寿命・家計余力・世帯構造の3軸から検討していくと、自分に合った受給開始年齢が見えてきます。判断に迷う場合は、年金事務所や金融機関・FPに相談することを検討してみてください。

参考資料

村岸 理美