子育てを経験した人の多くは「子育ての苦労は、してみないとわからない」と言います。「子どもを産むと優しくなれる」と言う人もいます。皆さんは、この意見について、どのように感じますか?

育児は”修行”のようなもの

産後の睡眠不足や慣れない抱っこで辛い体、イヤイヤ期の子どもに怒ってしまったときの自己嫌悪、パートナーとの家事分担に折り合いをつけるために必要な根気、育児のこだわりが理解されず孤独を感じた夜、洗っても洗っても積み上げられていく洗濯物……。

確かに、育児はたくさんの幸福をもたらすと同時に、次から次へと新しい刺激が降り注ぐ「滝行」のような一面があります。

3人の男児の母である筆者は7~8年前、こうした育児修行を通じて、「悟りの境地」に至った“つもり”になり、長時間勤務が常態化していた夫に尊大な態度で「育児たるや」と、説きたくなる瞬間が数えきれないほどありました。

そのときの自分は様々な欲を抑えているつもりでいながら、「大変なことをわかってほしい」「家庭の外に逃げ場があってずるい」「夫の協力はほしいけど、子どもにとっての1番でいたい」といった思いがドロドロと渦巻いていたように思います。

「お母さんになったから生まれ変わる」は絵本の中の話?

今年の初め、『あたしおかあさんだから』という子ども向けの歌が大きな話題となりました。様々なことを犠牲にして子育てに励む女性に向けた「応援歌」が、インターネット上で大炎上したのです。作詞をしたのが男性の絵本作家だったことも、燃え盛る炎に油を注ぐ事態となりました。

もしかしたら、「お母さん」という存在に敬意をこめ、育児中の女性の声を代弁したような自負があったのかもしれませんが、この歌詞の「お母さんになったら、自分のしたいことは後まわしになって当然」というような社会からの眼差しは、しばしば「子どもを産むことで、耐え忍ぶ力がつき、成熟できる」という飛躍した考えにつながっているように思います。

しかし、当然のことながら、子どもを産むことで人は劇的に変わるものではありません。続発する母親同士のトラブルや、絶えない虐待事件がそれを物語っています。

さらに、自分のやりたいことを後回しにして、『あたしおかあさんだから』の歌詞さながらに、自分の欲求にフタをして、ひたすら家族のために尽くしてきた先輩女性の中には、「その苦労、私たちもしたんだから」と、次の世代に同じ経験を強いる厳しさも持ち合わせた人もいます。

育児をすることで、目まぐるしく変化する目の前の子どもの喜怒哀楽に引きずり込まれ、否が応でも「共感力」が鍛えられる側面がありますが、それは必ずしも他人への「優しさ」とつながるものではないのかもしれません。

育児にも「裏面」がある

過去に子どもを大家族で育てて後継ぎや労働力とした時代は様変わりし、今や育児は、時間とお金とエネルギーと愛情を要する絶対失敗できない「一大プロジェクト」です。それゆえに「お母さん」という属性は強く、引力のあるものとなっています。

プロジェクトに関わる者には、孤独やストレスと引き換えに達成感とプライドがもたらされます。そして、プロジェクトの遂行を大義名分に、家庭内の「特別」と家庭外の「特別じゃない」を残酷に区別しなければならないシーンが多く訪れます。

さらに、「お母さんだから」こそ、「子どもに立派に育ってほしい」「良い人生を歩ませたい」「いいママだと思われたい」という新たな「欲」を抱えることもあります。

そうした育児の「裏面」を裏のままにして「親になったから、変わることができる」という「表面」の押し付けによって、子どものいない女性のみならず、子育て中の親をも縛り付けてしまうのかもしれません。

どんな属性であろうと、誰もが心の中に、凹んだり、ゆがんだり、爆発したり、外部からの衝撃を受けて陥没したり、涙の嵐がもたらされたりといった様々な歴史を抱え、それぞれが違った「心の地形」を持っています。

日々の暮らしの中で、許し、許される経験や、誰かに強く共感した経験を通じて、人が優しく成熟していくのだとしたら、育児をしていようがしていまいが、多くの人はそのチャンスの中で生きているのではないでしょうか。

北川 和子