「貴方に仕事を依頼したいのですが、失明する確率が100万分の1の危険な仕事です。何円で引き受けていただけますか?」と聞かれた場合と、「貴方は50%の確率で失明する病にかかっています。そんな貴方に危険な仕事を頼みたいのですが、それを遂行すると失明する確率が50.0001%に高まってしまいます。何円で引き受けていただけますか?」と聞かれた場合の回答は、同じですか?

前者には高い金額を回答したのに、後者には「誤差の範囲だから安くて良い」と回答したのではありませんか? そうだとすれば、それは錯覚です。

もっとも、読者が錯覚したとしても、悲観することはありません。「人類の進化の長い歴史の中で、そうした錯覚を身につけた方が便利だった」と考えれば、錯覚しなかった人より読者の方が進化しているわけですから(笑)。

余談ですが、今ひとつ。「読者は100万分の1の確率で失明する病にかかっている。これを治す薬があるが、何円なら買うか?」という問いはいかがでしょう? これは宝くじとは関係ないのですが、「人間は事態が改善する喜びより悪化する悲しみの方が大きい」という錯覚に関するものです。

それ以外にも錯覚の要因は多数ありそうです。当たった人の話は印象的だから頭の中に残りやすい、ということもあると思います。当たった人の話はニュースになるが、外れた人の話はニュースにならないから、ということもあるでしょう。「自分で売り場を選んだのだから、当たりそうな気がする」ということもあるかもしれませんね(笑)。

夢を買うなら合理的

上記のように、期待値を考えて経済合理的に行動するならば、宝くじは買うべきではありませんが、人生は期待値だけが重要なのではないでしょう。