問題が起きて悲しいことと、自分が「かわいそうな存在」というのは、全く別のこと。「かわいそう」という言葉は、人に対して使う言葉ではないようにも感じています。
「かわいそう」をつけなければ言えないこと
たとえば「寒そうでかわいそう」は、「もう1枚着た方がいいかもね」「寝かせてあげたら」と言えば済む話です。それでも育児だと「かわいそう」に変わるのは、そこに「かわいそうだから直してあげてね」という指示が暗に含まれているのではないでしょうか。
さらに母親の仕事や就園、食や兄弟については、「かわいそう」を使わなければ言いにくい内容でもあります。ストレートに「仕事を辞めて子どもを見たら」「幼稚園にしなさいよ」「もう1人産みなさい」とは言いにくいけれど、「かわいそう」を付ければ言いやすい。中にはストレートに言う人もいますが、言う側の都合で使われている面もあるでしょう。
また、「1人っ子はかわいそう」と言ったと思えば、「3人もいたら1人ひとりに目がいかなくてかわいそう」と言う人もいます。単に「かわいそう」と言いたいのかもしれません。
どちらにせよ、「『かわいそう』と加えることで相手が罪悪感を感じる」ことは、言う側も本当は気付いているのではないかと思います。本当の目的は相手の行動を直してもらうことですから、「『かわいそう』を付け加えることで自分が相手に指示するのを言いやすくしている」ようにも感じます。