「喜び」は衰えていくもの
喜びというのは、それをもたらしたものが存在し続けていたとしても、徐々に衰えていくものなのです。
たとえば、長いこと見つからなかったイヤリングの片方が、衣替えをしたコートのポケットから発見されたときにはうれしくて喜びにあふれますが、しばらくすると対になったイヤリングをつけるのが当たり前の状況になってしまいます。
もし、喜びのプログラムがほかの問題を忘れて何かいいことに意識を集中させるためのものであるなら、しばらくたったら終了する機能があらかじめ備わっていなければきわめて不都合だということになります。「喜び」は徐々に背景へと押しやられ、ほかのプログラムが私たちの関心を引くように仕向けなければならないのです。
このような馴化(慣れ)の作用はネガティブ感情にも起こりえますが、ポジティブ感情に比べれば、さほど早くもなければ完全でもありません。
人が、自分は幸せな生活を送っているという場合、四六時中文字通り喜びにあふれていたり楽しくて仕方がなかったりするわけではありません。ポジティブとネガティブのバランスシートを吟味してみた時、長い目で見て自分はより好ましい状態にあると感じるのです。
幸せは「比較」に左右される
起きているあいだじゅう、ずっと喜びに満ちあふれているというのは疲れることです。
人生にとって大切なのは、つねに歓喜を感じていることではなく、ときどき元気が出ればそれでいい。むしろ、全般的に見てほぼ満足という意味での幸せを感じることだと、たいていの人は理解しています。
対してレベル2の幸せとは何でしょうか。
【レベル2】の幸福の重要な要素は「生活の満足度」です。
これは、たとえば、「総合的に考えて、あなたは自分の生活にどの程度満足していますか?」といった質問に答えることで、引き出せる感覚です。
そのような問いへの答えは、「ふだんあなたは、どれくらい幸せを感じていますか?」という問いへの答えと、非常に強い関連があります。「喜び」についてであれば、人は自分の心の中を直接のぞいて、そのとき自分が、どれくらいの喜びを感じているかを知ることができるでしょう。
けれども「満足度」となると、その自己申告は、その瞬間の感情とももちろん関係がありますが、さらに経験的な知識を動員する間接的なプロセスを伴います。
つまりたいていは何らかの比較対象が必要となるのです。
だから、「どの程度満足しているか?」という問いに対して「何について?何と比べて?」という答えが返ってくるのは当然です。そしてこのことが、生活の満足度を自己申告させると、どうしても周囲の条件に左右されてしまう理由でもあるのです。