スマートフォン用カメラなどイメージセンサー向けの光源装置で世界トップシェアを誇る株式会社インターアクション。起業から8年という、製造業としては異例の速さで東証マザーズ上場を果たし、2017年に東証一部へと市場変更。先日、『四畳半から東証一部上場へ』を上梓した代表取締役の木地英雄氏ですが、そのスタートはずぶの素人からだったといいます。

学んだこともない光学の世界の会社に飛び込み、技術者としてどのように成功を収めたのか、当時のエピソードを交えながら、その秘密に迫ります。

ずぶの素人が光学の世界へ

高校を卒業してしばらく放浪をしていた木地氏が、経験も背景知識もない会社の面接に行き、幸運なことに採用が決まったのは、社員50人ほどの光学系企業だったそうです。その企業の創業者は、戦前に光学技術の習得のために政府が公費留学でドイツへ送った5人のうちの1人で、唯一民間におりて、日本で最初にレンズ研磨などの基本的光学機器を実現化させた人でした。

戦後になり、官公庁・国公立大学の研究所などの顧客から始め、東芝や日立といった大手電機メーカー、富士フイルムなどのフィルムメーカー、そして車載ランプで有名な小糸製作所などの仕事をしていました。基礎的な技術力や知識はきちんと蓄積されていた会社でした。

当時の光学の世界では、光と電気を互いに変換する光電変換技術のはしりの時代。大手の研究所には一流大学出身の優秀な研究員が数多くいて、彼らは電気と機械(現在であれば電気とソフトウエア)については非常に長けていました。木地氏は言います。「しかし、光学に詳しい人間は意外と少ないのです。『知識はあっても応用できない』と言い換えても構いません。計算はできても、計測する機械をどう作ればよいかはわからない。理論上はわかったとしても、具現化するのがなかなか難しい」。

木地氏は専門家が少ない光学の分野に入り、電気とソフトウエアを結びつける機械を設計し、それが大きな躍進につながりました。もちろん知識と技術力は常に磨き続けてきましたが、スタートは本当にずぶの素人からだったそうです。

一から勉強するつもりで取り組む

木地氏が会社に入り、手がけていたのは開発ばかりだったとのこと。会社には「職人」と言っていいほど気難しい先輩がたくさんいたため、理不尽で封建的な部分も多々あったそうです。「でも、技術に関しては彼らが10 年も20 年も多く経験を重ね、非常に有能な人たちであることはすぐわかります。最初の頃はどうにか吸収しようと奮闘していました」。

学生の頃から理数系は得意な科目だったようですが、しっかりとした教育を受けていないと感じていたこともあり、小僧になったつもりで一から勉強させてもらう意気込みで取り組んでいたそうです。

「先輩方には少し迷惑だったとは思いますが、わからないことは何でも謙虚に質問し、教えを請いました」と木地氏は当時を振り返ります。

誰もわからない世界での開発

当時は高度経済成長期で、大学の研究所や大企業の研究室から「こんなものを作ってほしい」という依頼が次々に舞い込み、製品を設計していました。設計といっても、最初のオーダーは紙一枚で「これを作ってほしい」と頼まれるところからです。「今では考えられないことですが、当時は紙一枚の依頼、口頭での依頼は当たり前。業界の進歩が早く、すぐに新しい技術や専門用語が生まれる時期だったため、だいたいがまだ世の中に存在しない機械と技術の話で、初めて聞くことばかりなので詰まってしまうことも度々ありました」と木地氏は話します。

今は当たり前に使われているレーザー技術も、出始めたばかりで、誰も扱い方や性質を詳しく知りません。使われる法則や数式、パワーの測定方法などは全部勉強するしかないのです。

「会社に専門書があれば借りて、家で読み込んで勉強しました。どんな概念や現象でも、初めて知るときはすべて言語からで、英語で新しい単語が出てきても、技術が新しすぎて日本ではまだ訳語がない場合がありましたね。日本語の専門書でも訳せない単語はそのまま英単語で書かれているので、その意味は何か、どんな概念を指しているのか、辞書にない言葉をどう理解するかが大きなハードルでした」

それでも「大量に類書を読み込んでいくとわかってくるようになった」と木地氏は言います。レーザーだけでなく、半導体や他の分野に関しても同じように知識を吸収し、理解し、そこで得たものを設計に反映させて、製品力を上げていったのです。

とにかく断らずにいったん引き取る

所属する企業が小規模だったこともあり、「自分で仕事を取って自分で設計し、自分で売るような状況で、自分の腕で取引先の要望を実現させる、その積み重ねが最初の信用になっていった」とのこと。

開発は普通早くても1~2カ月はかかります。しかし、何もないところから製品化するのに、「もっと早く」「もっと納期を短く」という要望もあります。

木地氏は「作ってほしい」と頼まれたら、まず断らずに一回引き取っていたそうです。言われた用語で二、三わからないものが交じっている場合もありますが、それも含めて引き取ってしまうのだといいます。木地氏はこう述べます。「知らない技術用語は、あとから調べればわかります。それを理解して構想を練る時間を1週間や2週間もらって、その間に構想図まで起こします」。

アイデアが湧かなければ家に帰ってしまう

全然アイデアが出てこないときもあったそうですが、そんなときは家に帰ってしまいます。「ビールでも飲んで早めに寝てリフレッシュし、次の日に改めて考える。真剣に取り組んでいると、休んでいるときも頭にずっと残っているもので、不思議なことに休んだ翌日の昼くらいには『あっ』と解が出てきました。何が何でも出さないといけない、というプレッシャーも刺激になっているかもしれない」と木地氏は言います。

浮かんだアイデアを構成して、相手の要望がきちんと取り入れられているか考えて、こんな装置にしようという構造が見えてくる。約束の1週間後、相手にそれをぶつけた反応から、手応えを見ていたそうです。

「相手は光学の専門家ではありません。しかし、問題を解決する技術的な根拠を説明しているうちに、『できそうだ』とわかると、本当に顔が晴れやかになります。すると改善について積極的に意見が出るようになり、議論ができます」

これらの議論は、構想図や設計図という叩き台があるから進むといえるでしょう。目に見えるものがあると相手もアイデアが出てくる。「こうならないか」と聞かれたらこっちも知恵を絞るので「こうできる」と次の話ができる。その積み重ねで本当に役立つ機械の設計が磨かれるのです。

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結局、エンジニアの能力を高めるには?

木地氏は「エンジニアとしての仕事」について、次のように語っています。

「私たちの仕事では、相手に『この人はできない』と思われたら、もう終わりです。技術的なことだけではありません。最後まで製品像がお互いに見えていて、どんな形になるか先方の担当者とこちらで構想図を共有できている。設計だけでなく、質問や応答がきちんと的を射ている。『ほう、こんな質問をしてきたか』という感覚は相手にもあったのではないでしょうか。言葉以外の態度や姿勢で信頼を作ったように思います」

お客様の要望を真正面から受け止め、その実現に向けて真剣に取り組む。そうした仕事に対する態度や姿勢を続けたことで、木地氏は入社して5年ほど経つと、会社の売上の2~5割ほどを回すようになっていたそうです。結局は、そうした誠実さや堅実な積み重ねが、エンジニアとしての能力を高めていくのです。

 

■ 木地英雄(きじ・ひでお)
株式会社インターアクション 代表取締役会長 兼 社長。1952年12月生まれ。横浜高校を卒業後、1977年に若狭光学研究所に入社。1992年に株式会社インターアクションを設立。会社設立当時は横浜市金沢区にある妻の実家2階の四畳半の部屋で研究を重ねる。現在、同社はスマートフォンのカメラなどのイメージセンサー向け光源装置で世界トップシェアを誇り、2017年3月には東証一部上場を果たす。フィジー共和国名誉領事も務める。

木地氏の著書:
四畳半から東証一部上場へ

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