「クルマ好き」という言葉をとんと聞かなくなった昨今。とりわけ「若者のクルマ離れ」が自動車業界にとっては将来への懸念材料の一つになってきているらしい。いや、むしろこの日本の社会全体で、クルマに対しての関心が薄くなっているのを感じる。
コンビニで痛感する自動車雑誌の地位低下
そのいい例が、クルマ関係の書籍の減少。クルマに限らず書籍全体のボリュームも縮小傾向にあるのかもしれないが、クルマをいわゆる「趣味」のカテゴリーとして捉えるならば、それぞれの趣味の隆盛を推し量る「雑誌」の種類で見ても、他の趣味に対して相対的にマイナー化の傾向が見て取れる。
クルマ好きの私がその悲しい現実を痛感するのは、コンビニエンスストアに行ったとき。コンビニの商品陳列を決めるマーケティングは大したもので、特にお目当ての雑誌を買い求めるつもりもないのに、なぜだか足は雑誌コーナーへと向かってしまう。
まさに彼らの意図する導線どおりに、何も考えずに雑誌コーナーへ歩いてしまう私に対し、「余計なもの買わないでよ!」と我が女房の先を見越した鋭い声が背後から飛んでくる。
ひと昔前ならば自ら探すまでもなく、クルマ雑誌のほうから私を見つけてくれるかのように、競合雑誌が隣り合わせで並びあう「魅惑のコーナー」というものが存在していた。
もちろん新車を買うあてなどあるわけないのに、各メーカーが発表する新型車のインプレッションやスクープの見出しに誘われ、“中身はおうちに帰ってからのお楽しみ♪ ”と、カゴの中にそれを放り込んでから本来のお目当てであった「アイスキャンデーのオトナ買い」をすべく、店内奥へと足を進ませていたものだ。
それが今ではどうだろう・・・クルマ関係の雑誌はあっても最下段。腕をまっすぐ伸ばした高さの棚には、美味しいもの特集の地域情報誌、コミュニケーション上達を促す指南書、オトナ買いに代表される、いわゆる無計画な消費を戒め貯蓄への努力を訴えかけるプチ経済雑誌・・・。
もはや私に予定外の購買意欲を起こさせる雑誌は皆無の、なんとも悲しい現状なのである。こうした身近なところでクルマの情報を目にする機会が減ったのも、若者のクルマ離れが進む一因なのかもしれない。それとも若者のクルマ離れが進んだからクルマ雑誌の扱いが低くなっているのだろうか。
友達とクルマについて語り合えなかった息子が選んだ職業は
ところで・・・我が家の息子、この春から社会人1年生になった。小学生から通算13年間アメリカンフットボールに全てを捧げ、中学~高校~大学と常に日本一を目指すチームで切磋琢磨してきた、いわゆる筋金入りの体育会育ちである。体力と精神力と忍耐力だけは親の私も感心するほどの逞しさを身につけた。
その勢いで社会人になってもフットボールと仕事を両立できる道を選ぶのだろうと思いきや、選んだ道はクルマ業界。実は、私自身はこの組織社会で人事を生業として歩んできたこともあり、就職活動にあたっては人事採用のプロとして本気で指導にあたった。
とかく「就社」になりがちな今どきの学生の意識を踏まえて、自己実現のための職業選択をさせるべく、商社、物流、メーカー、サービス業等々、親子の対話を通じて興味と関心の幅を広げた。結果、彼がどこよりも望んでその願いがかなった就職先は、某自動車メーカーのワークスレースカーの開発とレース活動を担う会社だった。
この会社はクルマを通して「わくわく、ドキドキ」に真剣に向き合い、クルマ文化を担う会社。まさに「クルマ好き」にはたまらない職場である一方、「若者のクルマ離れ」という課題に正面から取り組む使命を帯びている。
実は我が息子、私のDNAを引き継いだのか、ヨチヨチ歩きの頃から無類のクルマ好きである。いや、むしろクルマ好きになるべくしてなった成育環境があった。
絵本ではなくクルマ雑誌、積み木ではなくミニカー、ディズニーアニメではなく新型車のメディア向けプロモーションビデオ、遊園地ではなく国内最高峰のGTカーレース観戦のサーキット・・・。とにかく彼が幼少の頃はちょうど私が輸入車ディーラーのヤナセでセールス教育を担当していたこともあり、家の中はクルマ関係のグッズで溢れかえっていた。
結果、戦闘ヒーローものにも、ポケモン、遊戯王カードにも、小型ゲーム機にも興味を示さなかった彼は、友達との共通の話題作りに苦労したことを最近明かしてくれた。しかし、それよりも彼にとってのショックは、クルマを自分で運転できる年代になってからの、周りの友達のクルマに対する全くの無関心であったようだ。
同世代の友人たちにとっての「クルマ」は、電車やバスといった公共交通機関に等しい単なる移動のための選択肢の1つでしかない。そこには、言ってみれば無機質な工業製品である自動車を「愛車」と称して、まさにクルマを「愛でる」我々親子に共通する感覚がまったくなかったとのこと。
クルマ文化の未来を切り開くのは若者たち
私の学生時代なら、逆立ちしても買えもしない高級車やスポーツカーについて無責任なうんちくを語りあったり、意味もなく夜中に集合して、そのままそれぞれの「愛車」を駆ってつるんで走り、真夜中の観光地のだだっ広い大型バスの駐車場に愛車達を並べ、ダラダラと取り留めのない会話を、別に飲みたくもない缶コーヒーを片手に何時間も繰り広げたものだった。
そういうことがあったからこそ、「クルマと俺、そして友だち」といった思い出を今でも懐かしく思えるのだが、悲しいかな我が息子にはこうした想いを共有、共感できる若者に、就職するまで巡り合うことができなかったようだ。
「若者のクルマ離れ」・・・中年のクルマ好きにとってはウン十年前のあの日々を懐かしみ、コンビニの棚からクルマ雑誌が消えていく昨今を憂いているだけで済むのだが、クルマ文化の未来を切り拓き、さらなる「わくわく、ドキドキ」の提供を使命とする仕事を生業とした息子にとっては、とても大きなチャレンジになるのかもしれない。
鈴木 琢也