模倣を忘れてしまった悲しい日本人

「いや、現在のイノベーションの本質を理解していない」というご指摘もあるかもしれません。たしかに現在のイノベーションは、既知技術の組み合わせよりも、未知の“気づき"を根幹とするものが増えています。しかし、組み合わせ系が完全に否定されたわけではない。

ここで話は現在の政治の話に飛びます。いま一つよく分からない「新しい日本型資本主義」。

先日、BSニュース番組に出演していた山際経済再生担当大臣が「分配と成長の好循環」のキモは“イノベーション"だと力説していました。グリーンやデジタルという成長産業を、国をあげて応援していくそうです。

正直、ガッカリしました。そんなことは、どこの国もすでにやっています。全然、新しくない。しかし、ここでのガッカリの正体は新しくないことではなく、“新しくない"ことを平気で“新しい"と言う、その「性根」です。

そんな性根では、模倣もできないのではないか。パクリや模倣という言葉に問題があるなら、“キャッチアップ"とかの言い方もあると思います。“物は言い様"ですから。

そして、この新しくもないことを新しいと言うことと、いまの日本人の過剰なまでのパクリ認定が、どこかで相通じている気がするのです。

なぜ、日本人が最大の得意技とする模倣を自ら否定するのか。これがどうしても理解できません。

一番、悲観的な仮説は「その模倣力も、もはや衰えてしまったから」でしょうか。だとすれば、かなり絶望的な気も、ちょっとしますね。

参考資料

「イカゲームはパクリだ!」と騒ぐ日本人が隠したい、模倣民族の過去(ダイヤモンド・オンライン 2021年11月11日)

榎本 洋