一瞬にして立場が入れ替わった3月11日
状況が落ち着き、各国の捜索救援隊が帰国する中、ニュージーランド政府はJDRに対しても感謝の意を表しつつ、3月10日を活動の終結日とするよう勧めました。JDRはそのアドバイスを聞き入れ、11日の帰国を決めます。ほっと一息つけるはずの11日、JDRを迎えたのは東日本大震災でした。
東日本大震災発災が伝えられると、一瞬にして立場が入れ替わりました。今度はニュージーランドが日本を助ける番です。
ニュージーランド政府は日本政府の要請で、都市型捜索救助隊(USAR)48人を派遣することを決めました。これは国内のUSAR隊員の3分の1に当たります。まず6人が地震翌日の3月12日に、残りの隊員も14日までに現地入りを果たしました。
日本に派遣されることになった隊員たちは、寸前まで全員が依然として続くカンタベリー地震の余震の中、復旧作業に従事していました。自分たちの留守中に大きな余震が起こり、被害が出ても対応できるよう準備し、日本に向かったのです。
過酷な状況でも、日本のために
ニュージーランドをはじめとする4カ国が捜索・救助を担当したのは、宮城県の南三陸町でした。高さ約20mにも及ぶ津波が町の中心部を襲い、住宅の約70%がほぼ全壊、町役場や病院、警察署、消防署といった公的施設にも甚大な被害が及んだところです。
ニュージーランドのUSARの任務は、まず生存者がいる可能性が高い場所を特定。生存者を発見した場合は救助作業を行い、安全なところまで移動させるというものでした。活動は、がれきが山積し、気温が零下まで下がることもある過酷な環境の下行われました。
他国の捜索救助隊が撤収を始めたのと同時期に、ニュージーランドのUSARも帰国を決めます。ニュージーランドに戻ったのは3月21日。オークランド空港に到着した時、閣僚や一般市民、隊員の家族など大勢の人が集まり、その貢献をたたえ、出迎えました。