編集部より

フィデリティ投信(以下、フィデリティ)の元ファンドマネージャーで現在相談役である山下裕士氏に、フィデリティに入社以降に印象に残っている銘柄をエピソードとともに語っていただきました。当時はまだ少なかった証券アナリストの仕事内容や印象深い企業とのやり取りなど、個人投資家にとっては貴重な情報が満載です。是非ご覧ください。

今回は山下氏が大学卒業後、大阪屋証券(現・岩井コスモ証券)で証券アナリスト業務に従事したのち、1978年4月にフィデリティに入社してからバブル前夜までを取り上げます。

セブン‐イレブンは当初からIRに熱心だった

――フィデリティ入社後にどのような会社が調査対象だったのでしょうか。株式市場では毎年「主役」のような銘柄が必ずありますが、印象に残っている銘柄について順を追って教えてください。

フィデリティ入社後、最初に熱心にIR活動をされ、印象に残っているのがイトーヨーカ堂とセブン‐イレブン・ジャパン(以下、セブン‐イレブン)です。セブン‐イレブンで最初にお会いしたのは当時の鎌田誠晧取締役(後に副会長)、その後は氏家忠彦専務にも色々教えていただきました。

イトーヨーカ堂は1972年に東京証券取引所第2部に上場し、セブン‐イレブンは私がフィデリティに入社した翌年の1979年に東京証券取引所第2部に上場しました。セブン‐イレブンの株価は1979年に上場後、ITバブルの1999年まで、実に389倍という驚異的な値上がりを示しました。その背景はビジネスも業績も成長し、今なお成長し続けていることはご承知の通りです。

その一方で、2005年9月にイトーヨーカ堂とセブン‐イレブンが合併し、純粋なコンビニという成長企業に投資することができなくなったのは当時から投資家としては残念なことでした。最近、セブン&アイホールディングスで生じた経営の問題も投資家視点からすればさもありなんという印象さえあります。

三共はメバチロンで大躍進

――1980年代はどのような銘柄に注目したのでしょうか。

三共(現・第一三共)に注目しました。当時の河口静雄副社長をしつこく訪問したものです。銘柄を選択する際には、まずは企業が自ら変化する点に注目します。年間売上1,000億円以上の薬品を「ピカ新」といいますが、同社に関してはその可能性があるコレステロール低下剤メバロチンの開発が順調に進んでいました。同社が東京証券取引所に上場したのは1949年ですが、私が調査を開始した段階で注目するアナリストは少なかったのです。

ピーク時の1998年度にはメバチロンは年商1,288億円と国内最大の薬品となり、欧米でも販売されました。これによって同社の財務内容も大幅に改善されました。株価は1980年の300円から1989年には2,752円、1997年には4,430円と大化けしました。

三井不動産に見る公害問題とバブル経済の予兆

――経営の変化で会社が大きく変わりそうだという銘柄はなかったのでしょうか。

1980年6月頃には、三井不動産の当時の美野川慶一経理部長(後の専務)を訪問しました。三井不動産は当時のEPS(一株当たり税引き後利益)が15円前後、また配当が6.5〜7.5円の会社でした。利益が上がりそうな時は借入を増やし金利を払ってでも将来のために土地を調達しておくのが同社のビジネスモデルでした。その三井不動産が「今後5年で売上2倍強、経常利益3倍強を目指し、EPSの水準を上げ、株価上昇を目指す」という積極経営への転換に踏み切るというのです。

――三井不動産の経営陣はなぜそのような意思決定をしたのでしょうか。

その理由の一つは公害問題に端を発しています。三井グループ企業の工場が移転し、その跡地を当時の江戸英雄会長主導で取得し、数年分のマンション用地を確保したことです。もう一つには、外資系金融機関の東京進出が活発化しており、その需要を満たすためのオフィスビル建築を急ぐ必要がありました。まさにバブルの始まりという感触を得た瞬間です。株価は当時600〜700円台でしたが、バブルのピークの1989年には3,390円になりました。三菱地所、住友不動産の状況もほぼ同じでした。

――株式投資には時代の流れも大きく左右するのですね。

バブルの流れを感じた例はほかにもあります。1980年5月に東京電力を訪問しました。投資対象として魅力を感じたのは、配当利回りが5.8%ある上、円高・原油安・金利安のトリプルメリットを享受できる立場にあり、それらを確認するためでした。ちなみに電気料金に燃料調整制度が導入されたのは1995年12月のことです。

トリプルメリットがあることは確認できましたが、1985年頃から意外な方向に株式市場の注目は移ります。同社が豊洲に所有していた広大な土地の含みを評価する動きが出てきたのです。結果、1987年には9,420円という高値を付けました。

ならばその近くに土地をもつ東京ガスも評価されていいのではないかと考え、調べた上で200円前後で大量に取得しました。こちらも1987年には1,590円の高値をつけました。

「あなたには1,000人に話をするつもりで話をした」

――当時のベンチャー企業はどのような会社があったのでしょうか。

1980年9月に情報サービス業界として初めて、CSK(現SCSK)の株式が店頭公開されました。私は幸いにも「ベンチャーの父」と言われた当時の大川功社長に公開前に単独インタビューをすることができました。多くの社員が聞いている中で、午後1時〜5時まで、創業時のエピソードから将来の計画までを熱く語ってくださいました。

――なぜ大川功社長は上場前にそこまで熱心に投資家に話をしてくれたのでしょうか。

インタビューが終わってから大川社長は「あなた一人にこれだけ熱意を持って話をすれば、あなたは必ず他の何人かに今日の話をするはずだ。それを聞いた人もまた次の誰かに話をする。従って、今日は1,000人に話をするつもりでお話ししたのですよ」とおっしゃいました。私のその後の人生に大きな影響を与えてくれた4時間でした。

花王や旭硝子といった歴史のある企業も自ら変革

――ベンチャー企業の経営者は多にしてユニークですが、経営者と投資家という関係で当時に特に印象に残っている会社はどのような会社でしょうか。

1983年に花王の当時の渡辺正太郎専務(1988年に副社長就任)がフィデリティに訪ねてこられました。その後、経営者と投資家という関係ではありましたが、2000年の退任まで色々とご指導いただきました。

花王は現在でも多くの消費者に支持されている入浴剤「バブ」を1983年に発売、1987年にはコンパクト衣料用洗剤「アタック」を発売しました。また同社は経営でも先進的な取り組みをしてきたことで有名です。EVA(経済的付加価値)システムの導入をした経営をしていることは株式市場では良く知られていますね。当時の株価は500から600円の間で推移していました。その後、今日までの着実な成長はご存知の通りです。

また、1983年には旭硝子の当時の岡村常務を訪問しました。ガラス、ファインケミカル、フロンガスとバランスのとれたビジネスモデルについて懇切丁寧な説明を受け、同社への理解が大いに深まりました。その後、当時の坂元昌司経理部長(後の専務)にお会いするようになりました。当時の株価は400〜500円でしたが、1989年には2,530円と3年で5〜6倍の値上がりとなりました。

1998年10月に石津進也社長にお会いした時、同席されていたのも坂元専務でした。この頃同社は構造改革、ROEの向上、キャッシュフローの極大化などに取り組んでいました。残念ながらガラス部門は価格競争激化のため、1980年代のような業績は上がらなくなっていました。

――それ以外に注目された企業はどのような企業があったのでしょうか。

1982年には日東電工を訪問しました。産業用テープのトップメーカーとして知られていましたが、膜技術をはじめとしたR&D(研究開発)に注力していました。海水の淡水化、経皮吸収型テープ製剤、電子材料等多角的展開に取り組んでいました。1990年代になって液晶用偏光板が大きく伸びました。

1984年にはブリヂストンを入念に調査するようになりました。当時のブリジストンの海外売上は全体の30%程度でした。ただし、その頃から海外戦略に注力しており、最近では80%近くが海外売上となっており、典型的なグローバル企業になっています。

1985年からは住友不動産に注目しました。三菱地所や三井不動産に比べると後発ながら、積極的な経営でオフィスビル、マンション事業と拡大していっていました。当時はワラント債や借入金が多すぎるなど財務内容に問題があり、株式市場ではそこはマイナスに見られていたと思います。ただし、ちょうどバブル景気に突入するというようなタイミングであったため、事業環境に恵まれ、急成長しました。

ここまでのまとめ

今回は、山下裕士氏が1978年にフィデリティに入社し、バブル経済が本格的に始まる直前までを振り返ってきました。高度経済成長期から公害問題など、そうしたマクロ環境の変化で恩恵を受ける銘柄、また自助努力で経営を革新していった企業などは興味深いです。次回はバブル崩壊前夜からその中でも大きく株価が上昇した銘柄などに触れていきます。

 

LIMO編集部