個人の自由と罪悪感のはざまで…
筆者が20代半ば頃、ある催しで宿泊していた夜のことでした。何となく寝付けず寝床を抜け出し、風のあたる場所に移動して時間をつぶしていたところ、一緒に来ていた5歳年下の従妹もやってきました。お互い社会人になり、なかなか話す機会がなかった筆者たちは、久し振りにゆっくりと話をすることができたのです。
年頃ということもあり、自然と話は恋愛、そして結婚の話へと進んでいったのでした。
親しくしていた青年部員たちが何人か結婚を決めたという話を、よく耳にするようになった頃というのもあったのでしょう。同じ青年部同士で付き合っている人は、そのまま結婚するケースがほとんど。この宗教以外の人と付き合っていたはずの人は、いつの間にか別の支部の青年部(つまり同じ宗教)の人と結婚した…なんて話題も出てきました。
「手っ取り早いしね、分かるよね。同じ立場の人と結婚しちゃうの」
従妹がいった言葉に、筆者も深く頷くしかありませんでした。
従妹にも、そして筆者にも、当時お付き合いしていた彼がいて、どちらの彼も信仰していない人でした。もし結婚となれば、身内から当然のように入信を勧められるであろうことは、簡単に想像することができました。いえ、想像ではなくそれが『当然』なのです。
逆に入信を勧めなければ、「愛する人を幸せにしたくないの?」といわんばかりに、筆者達が非道な人間として詰め寄られることでしょう。そして、それは身内だけではなく、きっと青年部でつながっていた人たちや、支部役員の人まで出てきかねないのです。
でも筆者たちは、相手に強く入信を勧める自信がありませんでした。自分たちが違和感を覚えていることを、好きな相手に強く勧められるでしょうか? 日本では信仰も結婚も個人の自由が保証されているはずなのに、そんな自由なんて感じたことがなかった当時の筆者たちには、どうすることもできずに立ち止まるしかありませんでした。
彼に直接相談できていたら、何か違っていたのかもしれません。でも筆者は、彼にも友人にもこんな悩みを打ち明けることもできずにいました。親はもってのほかです。
信仰している人に話しても理解してもらえるわけがない…と考えていたと同時に、そんな思いを抱いているだけでも罪悪感でいっぱいになり、口に出すことができませんでした。そのため、同じ境遇の従妹とこのような恋愛や結婚についての価値観を話し合えたことは、筆者の心が少し軽くなった瞬間でした。
「でもね、イヤなんだ私。流されて結婚するのは」
従妹がいう言葉はけっして長くありませんでしたが、筆者には自分の言葉のような分かり過ぎるくらいの重さを感じたのでした。