2020年は新型コロナウイルス(COVID-19)や全国的な自殺者の増加など、暗いニュースが続いています。そのような中で、某有名女優さんの結婚が久し振りの明るいニュースとして取り上げられたことは、まだ記憶に新しいと思います。
ニュースの中でも気になるのは、やはりお相手のこと。
視聴者である私たち一般市民には、真偽の程は定かではない情報も入ってきます。そのような噂の中にあった「同じ宗教の人と結婚したんだろう」という情報。ご存知の方も多いのではないでしょうか?筆者は我が身を振り返り考え「やっぱり…」という、少し複雑な心境を感じていました。
日本では、信教の自由が保証され(第20条)、婚姻に関しても両性の合意のみに基づいて成立する(第24条)…と日本国憲法には記されています。でもこの自由がままならず、悩んでいた時期が筆者自身にあったことを、今回のニュースをきっかけに思い出したのです。今回は、そんな宗教と結婚のはざまで悩んだ、筆者の経験をお話させて頂きたいと思います。
※今回のお話は筆者個人の意見であり、けっして信仰を批判するものではありません。また、各個人の信仰や婚姻の考えを制限もしくは否定するものではありません。
宗教3世として生まれた
筆者の幼い時の特技は正座でした。
幼稚園児や小学生が長い時間正座していられるのは稀だということを理解した頃には、すでに1時間程度の正座なら苦にならない子として成長していました。
我が家がとある信仰を始めたきっかけは、母方の祖父でした。筆者が生まれる前に亡くなっていた祖父ですが、その祖父の意志を引き継いで祖母も熱心に信仰していました。筆者自身も生まれた数日後には、入信していたそうです。
朝は毎日30分のお経をあげ、夕方は1時間。それが幼い頃からの日課であり、「正しい良い行い」であり、サボれば母や祖母をもっとも悲しませることと認識していました。学生時代から20代にかけては、定期的に開催される青年部の集会や勉強会に参加し、年に数回の地方総会なども毎年欠かすことなく訪れていました。
傍からは熱心に信仰しているように見えていたと思います。ですが筆者自身はというと、小学生になった頃には「周りとは違う」ということを感じ、違和感と少なからずの抵抗心を持っていました。それでも続けていたのは、習慣と「正しい」と教え込まれたものに逆らうという罪悪感、そして親を悲しませたくない…という思いからでした。
少なからずの抵抗心から、周りのどんなに親しい人でも、自分が信仰していることを話すことはできませんでした。
夕方、早めに帰るのは「家の人に怒られるから。」
休日、遊びの誘いを受けても「別の用事があるから、またね。」
そんな風に友人を誤魔かしながら、筆者自身には『でも、嘘は言っていないもん…』と心の中で言い訳していました。その「言えない」という思いは、筆者の人間関係を形成する上で常につきまとっていたのです。
個人の自由と罪悪感のはざまで…
筆者が20代半ば頃、ある催しで宿泊していた夜のことでした。何となく寝付けず寝床を抜け出し、風のあたる場所に移動して時間をつぶしていたところ、一緒に来ていた5歳年下の従妹もやってきました。お互い社会人になり、なかなか話す機会がなかった筆者たちは、久し振りにゆっくりと話をすることができたのです。
年頃ということもあり、自然と話は恋愛、そして結婚の話へと進んでいったのでした。
親しくしていた青年部員たちが何人か結婚を決めたという話を、よく耳にするようになった頃というのもあったのでしょう。同じ青年部同士で付き合っている人は、そのまま結婚するケースがほとんど。この宗教以外の人と付き合っていたはずの人は、いつの間にか別の支部の青年部(つまり同じ宗教)の人と結婚した…なんて話題も出てきました。
「手っ取り早いしね、分かるよね。同じ立場の人と結婚しちゃうの」
従妹がいった言葉に、筆者も深く頷くしかありませんでした。
従妹にも、そして筆者にも、当時お付き合いしていた彼がいて、どちらの彼も信仰していない人でした。もし結婚となれば、身内から当然のように入信を勧められるであろうことは、簡単に想像することができました。いえ、想像ではなくそれが『当然』なのです。
逆に入信を勧めなければ、「愛する人を幸せにしたくないの?」といわんばかりに、筆者達が非道な人間として詰め寄られることでしょう。そして、それは身内だけではなく、きっと青年部でつながっていた人たちや、支部役員の人まで出てきかねないのです。
でも筆者たちは、相手に強く入信を勧める自信がありませんでした。自分たちが違和感を覚えていることを、好きな相手に強く勧められるでしょうか? 日本では信仰も結婚も個人の自由が保証されているはずなのに、そんな自由なんて感じたことがなかった当時の筆者たちには、どうすることもできずに立ち止まるしかありませんでした。
彼に直接相談できていたら、何か違っていたのかもしれません。でも筆者は、彼にも友人にもこんな悩みを打ち明けることもできずにいました。親はもってのほかです。
信仰している人に話しても理解してもらえるわけがない…と考えていたと同時に、そんな思いを抱いているだけでも罪悪感でいっぱいになり、口に出すことができませんでした。そのため、同じ境遇の従妹とこのような恋愛や結婚についての価値観を話し合えたことは、筆者の心が少し軽くなった瞬間でした。
「でもね、イヤなんだ私。流されて結婚するのは」
従妹がいう言葉はけっして長くありませんでしたが、筆者には自分の言葉のような分かり過ぎるくらいの重さを感じたのでした。
それから月日は流れ、現在
現在、筆者は結婚し3児の母になりました。
当時お付き合いしていた彼とはお別れしてしまいましたが、夫は唯一、お付き合いしている段階で入信していることを伝えることができた相手でした。
そして、夫と子どもたちは入信していません。
家族の中でもっとも信仰熱心だった祖母が亡くなり、また筆者たち一家は実家と離れて暮らしているため、日常的に入信を勧められることはないからといえます。ただ、節目節目で母から言葉を投げかけられることはあります。
「お寺さんには行ってる?」
「孫たちは入信させないの?親が子どもにできる最も大切な贈り物なのに…」
「私が死んだときに分かってくれるのかしら、って思ってるの」
このような言葉を聞くと、筆者の中ではいまだに少なからず罪悪感を覚えてしまいます。それでも「夫と子どもたちが自分から入信したいというなら止めないけど、筆者から勧めることはしない」と思っています。
子どもたちには、自分に選択肢のある人生を歩んでほしいのです。それは基本、宗教だけではなく職業・趣味、そして結婚相手にしても…です。筆者自身、現在の人生の選択は最終的には筆者が選んだものであると納得していますが、信仰に感じていた窮屈さ、そして行動や意志に常につきまとう罪悪感…。振り返れば、多感だった時期には確実に筆者の重荷になっていました。
幸せの形は人それぞれであるように、その形を模索する自由は、誰しもが求めていいのではないか…そう思っています。その環境を、最愛の我が子に与えてあげたい、それが筆者たち親からのもっとも大切な贈り物になったらいいな…と願っています。
※繰り返しますが、今回のお話は筆者個人の意見であり、けっして信仰を批判するものではありません。また、各個人の信仰や婚姻の考えを制限もしくは否定するものでもありません。