投資のプロにとって「カン」とは何か?

伝説のファンドマネジャーから学ぶ投資の思考

 新型コロナウイルス感染症の流行は世界経済に大きな打撃を与え、今後の日本経済の先行きも混迷を極めるであろうことが予測されます。しかし、公開株式などへの投資は「ギャンブル」とはちょっと違います。市場経済には、ギャンブルにおける「胴元」がいないからです。また、同じ理由から、経済が発展して規模が大きくなるに連れて、我々に還元されるものも基本的には大きくなります。

 ただし、当然ながら、今が「買い」なのか、それとも「売り」なのか、あるいは「動いてはいけない」のかという判断は常に求められます。ギャンブルではありませんが、ある意味で、投資家も勝負の世界で生きていると言っても過言ではありません。

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 この記事では、アナリストとして18年、ファンドマネジャーとして23年という「業界としては異例なほどの長期間」にわたって運用の最前線を走り、その後もアドバイザーとして17年以上を過ごしたスペシャリストである山下裕士氏の著書『伝説のファンドマネジャーが見た日本株式投資100年史』(クロスメディア・パブリッシング)をもとに、著者の過去の経験なども交えつつ、投資における「カン」とはどんなものなのか、その正体を解説してもらいました。

父の教えと初めての株式投資

 私は1960年に大阪屋證券株式會社(現在の岩井コスモ証券株式会社)に入社しました。当時、父の「証券会社に入ったからには、相場を経験したほうがいい」とのアドバイスを受け、20万円を借りました。これは現在では300万円ほどに相当します。

 これを元手に関西の南海電鉄、日本コンデンサ工業(現在のニチコン)などの株を買い、株取引を始めました。当時は「岩戸景気」の真っ只中で、自分が買った株はほとんど値上がりしていました。独身で20代前半であった私は、儲けはすべて小遣いにし、遊ぶのに忙しかったくらいです。

 しかし、その2年後に東京に転勤になったあたりから、下げ相場が続きました。この下げ相場に乗じて私は信用取引の空売り(手元に持っていない株式を信用取引すること)を始めました。しかし、その後も国際情勢の影響を受けて日本株は下落し続けました。

株式での失敗から私が得た教訓

 それ以降も下げ相場は続き、1965年以降の日本経済は、構造不況とも呼ばれる「証券恐慌」により市場としてさらに厳しい状況に追い込まれました。その頃の私は、引き続き目いっぱいの空売りをかけて、東証ダウ(東証225種ダウ式平均株価)が1000円を割った後に買い戻しのタイミングを狙っていました。

 結果、東証ダウは1000円を下回ったものの、その後に出来高を伴って急反発に転じました。4年間にわたる下げ相場の終焉とともに、私は買い戻しのタイミングを逸して含み益を失っただけでなく、かなりの借金を背負うことになってしまいました。

 そんな昭和の激動の時代で酸いも甘いも学んだ私は、この株式投資での失敗体験から2つの教訓を得ました。

(1)株式投資は真剣勝負だが、博打ではない。儲かったからといってすべてを小遣いに使ってはいけない。失敗することもあるので、儲けの半分はその時のための備えとして残しておく
(2)失敗は誰にでもある。その失敗を「授業料」と考え、しっかり記憶に留めておく。同じ失敗を繰り返してはいけない

2人のプロ野球選手が語る勝負師としての「カン」

 私は、50年以上も証券業界にいて、さまざまな経験をしてきました。これまでも、今も、「相場はこれからどうなる」ということばかり考えています。過去に何があったか、自身の経験については答えられますが、「これからどうなる」という質問に、自信をもって答えることはできません。しかし、経験をもとにして、ある程度の予測をすることはできます。

 長年の経験で培われた私自身の「相場観」を極めるプロセスと、引退した2人のプロ野球選手の言葉に共通したところが多いので、少し紹介します。

 1人目は、千葉ロッテマリーンズで二度の日本一と第1回WBC制覇に貢献した里崎智也捕手(2014年に現役を引退し、現在は野球解説者)です。

「捕手で一番大切なものは感性だ。〔中略〕『自分の好き勝手を適当にやっていた』というアマチュア時代はいわゆる勘任せ。同じ『カン』でもプロに求められる感性には理論や経験に裏打ちされた根拠が不可欠だ」(2014年12月18日、日本経済新聞朝刊)

 もう1人は、中日ドラゴンズで50歳まで現役で活躍し、実働29年間というプロ野球選手生活を送った山本昌投手。投手でありながら、やはり捕手の重要性に触れています。

「頭脳労働と思われがちな捕手だが、頭で考えているようではまだまだ。投手の調子、打者の力量、試合展開などすべてを把握し、直感でサインを出せるようにならないとレギュラーは務まらない。そうなるのには膨大な経験が必要で、だから捕手を育てるには時間がかかる」(2016年5月24日、日本経済新聞朝刊)

分析しても決断できないときはどうするか?

 この2人が言わんとしていることは、「データを集めることはもちろん重要ながら、そのデータを生かす感性とか直感がより重要である」ということでしょう。つまり、データを収集するだけにとどまらず、「その先の大局観を持って、現状の立ち回りにどう活かすか」が重要なのです。

 投資の世界で言い換えると、「データを集め、数字を分析すること」はもちろん基本です。しかし、それを前提にした上で、日々刻々と変化する世界経済・日本経済・市場環境の中で、投資判断や銘柄選択をいかに的確に行うか? 究極的には感性や直感に頼るところが大きいと考えています。

 相場観を持ち、銘柄選択を行うためには、十分な勉強や調査は言うまでもなく必要であり、そうした基礎なくして正しい判断はありません。問題は、そうした手順を尽くしても決断できない時でしょう。見送りや静観という手もあります。しかし、「売り」か「買い」か決断を迫られる場合、たとえば保有している銘柄が値下がりした時、買い増しするか、それとも損切りするか――。

 できる限りの調査は当然しますが、決断するに十分な情報が得られない……。当然ながらその間にも相場は動いていて、われわれの決断を待ってはくれません。

筆者の山下裕士氏の著書(画像をクリックするとAmazonのページにジャンプします)

「持って生まれた部分」と「努力や経験で磨ける部分」

 投資経験の豊富な人であれば、過去の類似したケースを参考にしながら決断するでしょう。一方、ほとんど投資経験もなく、市場環境や会社分析の手法もよく知らない人が衝動的に、あるいは他人の言葉だけを頼りに売り買いするのを、「ヤマカン(山勘)」といいます。当然これは失敗する確率が高いはずです。

 人には「五感」と称される〈視・聴・嗅・味・触〉の5つの感覚があります。それぞれ〈眼・耳・鼻・舌・皮膚〉で感じとっている感覚です。しかし、このほかに「第六感」というものがあります。広辞苑によると、「鋭く物事の本質をつかむ心のはたらき」と書いてあります。

 味覚や聴覚などの五感には、もともと感覚の優れた人と鈍い人がいます。第六感も人によって持って生まれた違いはあります。端的にいえば、「カン(勘)のいい人」と「カンの悪い人」がいるということです。もともとの感性の違いは変えようがありません。しかし、その後の努力や経験の積み重ねで、自分の感性を磨くことはできると私は考えています。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

 これはドイツの鉄血宰相と異名をとるオットー・フォン・ビスマルク(1815~1898年)が遺した言葉ですが、私は「経験から学ぶこと」が愚者のすることとは考えてはいません。経験の積み重ねと豊富な知識があってこそ、厳しい場面に直面したときに正しい瞬間的判断を行えるからです。

 言い換えれば、努力や経験を重ねることによって、できるだけ多くの「引き出し」を持つことができ、その「引き出し」を臨機応変に活用することができるのです。知識や経験は、雑然と頭に入れておくだけでは、いざという時に役立てることができません。自分の中で体系化・法則化しておくことで、とっさの時に役に立つものなのです。


■ 山下 裕士(やました・ひろし)
 フィデリティ投信 前相談役。大学卒業後、1960年に大阪屋證券(現・岩井コスモ証券)に入社。証券アナリスト業務に従事した後、1978年にエフ・エム・アール・コープ東京事務所(フィデリティ投信の前身)に転職し、資産運用・企業調査業務に従事、長くファンドマネジャーを務める。資産運用の世界では例外的なほど長期にわたる経験を持つ数少ないプロフェッショナルの一人であり、驚異的な運用成績とともにその企業調査手法や市場への視点は、プロの投資家・アナリストたちからの尊敬を集める。フィデリティ投信の相談役などを務めた後、2019年に退任。

 

山下氏の著書:
伝説のファンドマネジャーが見た日本株式投資100年史

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フィデリティ投信 前相談役。大学卒業後、1960年に大阪屋證券(現・岩井コスモ証券)に入社。証券アナリスト業務に従事した後、1978年にエフ・エム・アール・コープ東京事務所(フィデリティ投信の前身)に転職し、資産運用・企業調査業務に従事、長くファンドマネジャーを務める。
資産運用の世界では例外的なほど長期にわたる経験を持つ数少ないプロフェッショナルの一人であり、驚異的な運用成績とともにその企業調査手法や市場への視点は、プロの投資家・アナリストたちからの尊敬を集める。フィデリティ投信の相談役などを務めた後、2019年に退任。