僕は高校、大学、社会人と過干渉な父に悩まされます。いつも意図不明の強い主張を受け、すごい剣幕で叱られていました。

僕がそれに反発すると「親に向かって何を言っているんだ」とさらに怒られるようになります。
大学生になっても、社会人になっても過干渉は続きます。

大人になった僕は、もう「僕の人生に父がどう思うか」ということが何の意味も持たないことに気づいていたので、何も言わず、ただ従わないようになったのです。

社会人になってしばらくたち、僕は結婚することになりました。妻は僕と考え方の違う人間でしたが、妻は父とは違います。

僕との違いを認めてくれますし、考え方に違いがあればすり合わせようとしてくれました。僕も相手がすり合わせようとしてくれれば、自分も自然にすり合わせようとできる人間だということがわかったのです。

僕は自分で自分のことを、人の意見に耳を貸さない人間だと思っていました。

しかし、妻と出会ったことで、自分に共感してくれる相手の話であれば、人の意見にも耳を傾けることができる自分に気づいたのです。

考え方の違う人とのコミュニケーションの上手な妻は、父とのコミュニケーションも上手でした。スキのない妻の姿を見て、父の僕への態度は変わり、深く干渉してこなくなりました。

何か僕が大きな決断をしたら、父は必ず頭ごなしに僕の考えを否定していたのに、今では「奥さんに相談したのか」と尋ねるだけになったのです。

僕はそんな父の姿を見て「安心してくれたのかな」と思っています。過干渉や、頭ごなしの否定は僕を苦しめましたが、父としては「下手くそで身勝手な愛情表現」だったのです。

小さなころから僕もそんなことはわかっていました。でも、嫌なものは嫌なのです。

これが、僕が父を憎んでいないけれど、嫌いな理由です。

親との関係性は「共感」が大切

僕に愛情を持っているにも関わらず、ここまで嫌われている父はすこしかわいそうに思います。
しかし、ここまで嫌われているのは父が僕に共感しようとしてこなかった歴史があるからです。父は僕がどんな人間なのか、今でもよく分かっていないと思います。僕も同じように父がどんな人間なのかよくわかりません。

でも、もうそれでいいと思っています。僕と父は分かり合うことはできません。

わざわざその溝に向き合う必要はないし、溝と向き合うことで、そんなに老い先が長くない父を傷つけたくはありません。父に悪気はないのです。

これが僕の息子としての、「嫌い」なりの愛情です。

僕は自分の息子の話としっかり向き合い、息子の考えをベースに視野を広げてあげられるような父親になりたいと心から思っています。

柳沢 裕也