子供の一人歩きに大人が付き添うべきか否かは、コストとベネフィットを比較して考えるべきだ、と久留米大学商学部の塚崎公義教授は主張します。

危険なものは全て排除すべきか?

子供を連れ去る悪質な事件が目につきます。被害者の方々には心からお見舞い、お悔やみ申し上げます。しかし、「だから子供の一人歩きを禁止して大人が付き添うべきだ」という意見には、直ちには賛成しかねます。

子供の連れ去り、といった珍しい事件は大きく報道されますから、印象に残ります。そこで、対策を検討すべきだ、と声高に要求する人が出てきます。しかし、実際には何百万人の子供たちの中で、連れ去られたりするのはごくわずかです。

一方で、認知症の高齢者が徘徊して亡くなるという痛ましい事故は多数起きているようですが、珍しくないので報道されませんし、したがって我々の印象にも残らず、対策を声高に要求する人も出てきません。

そうであれば、子供に大人が付き添うより認知症の高齢者に付き添う方が先でしょう。もちろん、「子供にも認知症の高齢者にも付き添うべき」という意見はあり得ますが、それに対してはコストとベネフィットをどう考えるのか、という問題があります。大人が付き添うことによって必要となるコストと、それによって防げる連れ去りの数が、割に合うのか、という問題です。

こうした話をすると、「人の命は地球より重いのだから、コストの話など持ち出すべきではない」という人が必ず出てきます。しかし、それに対しては以下のような反論が可能です。

「大人と一緒に歩いていて交通事故で命を落とす子の方が、一人で歩いていて連れ去られる子より多いのです。それを考えれば、時速20キロ以上で走行可能な自動車は禁止すべきです」。

「便利なものは危険です。危険を完璧に除去したければ、自動車の制限速度は20キロにすべきです。殺傷能力のあるナイフは製造禁止にすべきです。インターネットは犯罪に悪用される可能性があるので禁止すべきです」。そんな極論が通るはずもありません。要は、程度の問題、常識の問題なのです。

付き添いのコストは誰が負担する?

子供の通学に親が付き添うとすると、両親が働いている場合には誰かに頼むことになります。頼まれた人が仕事として報酬をもらうならば、両親には経済的な負担がかかります。人命は地球ほどではないけれども、十分重いですから、ここまでは仕方ないとしましょう。

しかし、「子供が屋外で遊ぶ時は誰かが付き添うべき」と言われると、貧しい家の子は「付き添いを雇う金が無いから、外では遊ぶな」と言われてしまいます。それはとても可哀想なことです。

それなら、付き添いは政府が雇えば良いのでしょうか。「そうだ」と答える人は多いでしょうが、「政府が雇うべきだ。そのための費用は喜んで我々が負担するから」という人は多くないでしょう。

日本人は、税金はお上に召し上げられるもので、行政サービスはお上から施されるもので、その間には関係がないと思っている人が多いようです。そこで、気楽に「付き添いは政府が雇ってやれ」という発言になるわけですが、本来ならば「我々で資金を出し合って、子供達に付き添いを雇ってやろう」と言うべきなのです。

さて、納税者たちが増税に合意したとして、この労働力不足の時代に誰を雇うのでしょうか。介護も保育も労働力不足で悩んでいる時に、せっかく雇った労働者を介護や保育ではなく子供達の付き添いとしてしまって良いのでしょうか。

あるいは、「我々が受けている別の行政サービスを削って良いから、子供たちのために付き添いを雇ってやれ」ということになったとして、どのサービスを削るのでしょうか? 合意ができれば良いのですが。

ちなみに、筆者は子供の付き添いが不要だとは考えていません。付き添いがいた方がいないより良いに決まっています。余裕がある親は、付き添いをつければ良いには違いありません。しかし、いかなるコストをかけても付き添うべきだ、とは思っていません。

まして、付き添いを付けずに連れ去りが発生した時に、被害者の保護者を批判すべきだとも思いません。むしろ、最近の諸事件の被害者の保護者が「あなたが付き添っていなかったから被害に遭ったのよ」といった誹謗中傷を受けていないことを祈ります。

優先順位をどう考えるか

余談ですが、「完全は無理なので、優先順位を付けよう」、ということで言えば、「自動運転は稀に事故を起こすので、技術が完璧になるまでは許可すべきでない」と言う人がいます。しかし、現実には運転の下手なドライバーはいくらでもいます。そうした人に運転免許を与える一方で自動運転を許可しない、というのは優先順位の間違いだと筆者は考えています。

極論ですが、「自動運転車より運転が下手なドライバーは免許を返上すべきだ」とまで考えています。認知症の高齢者の運転する車が引き起こす事故に巻き込まれたくありませんから。

極論はともかく、自動運転車が街を走っている平均的なドライバーよりは相当安全だ、ということであれば、これを早急に認めるべきだと思います。もちろん、理想は完璧な自動運転車が早急に完成することですが。

なお、本稿は厳密性よりも理解しやすさを重視しているため、細部が事実と異なる可能性があります。ご了承ください。

<<筆者のこれまでの記事はこちらから>>

***投信1はLIMOに変わりました***

塚崎 公義