NHK「おかあさんといっしょ」でうたのおにいさんを務めた横山だいすけさんの歌う「あたしおかあさんだから」の歌詞がネット上などで批判を受けました。でも、歌詞を読みながら「これ、私のことだ」と思ったママもいるのでは。

筆者も3人の子を持つ今だからこそママが自分の好きなことをする大切さを理解しましたが、1人目のときはこの歌詞通りの生活をしていました。夫や周りから求められて、また自分自身でも無意識のうちに、この歌詞通りの生活を良しとしてしまっていたのです。

この歌詞を批判するものの、自分に同じことを求めるママ、そしてパートナーに求める男性もまだまだ多いと思います。それはママの自己犠牲を求める意識が、日本全体に根強く残っているからではないでしょうか。その根本的な原因は3つほどあると考えています。

自分の親が最低ライン

現在乳幼児のお世話をしている親の多くは20〜40代、そのまた親たちは50〜70代の方が多いでしょう。彼らは高度成長期の世代で、男性は大企業に入れば安定といわれ、女性は専業主婦の多い世代でした。

もちろん地域差はあり、筆者はかかあ天下で有名な県の出身ですが、親の世代でも共働き率は多め。それでも今ほど出身地が遠く離れた人と結婚することはなく、県内での結婚が多い時代。実家が近い人や同居という人も多く、祖父母に子育てを手伝ってもらっていたようです。

さて、現在は専業主婦よりも共働きが普通となりつつあります。核家族であり、実家が遠くて手伝いを求められない人も多いでしょう。それでも人間は、「自分の親と同じ姿をパートナーに求める」ところがあります。時代が変わり、環境が変わっても「自分の親が最低ラインであり普通である」として疑わず、自分とパートナーに求めるから問題が起こるのです。

模範とする親の記憶も、乳幼児期はほぼないという人が多いはず。自身の小学生以降の親のイメージを模範とするものですが、子どもが小学生になれば親も時間・精神・体力などの余裕は出てきます。結婚したての頃とは違い、料理や掃除といった家事にも慣れ、効率もわかっているでしょう。求める最低ラインが高過ぎるところもあります。

「普通」という固定観念

いま親である世代は「普通が一番」と育てられた人も多いと思います。なるべく目立たず普通が一番という教育を受けていませんか?今後AIの時代は思考力や個性が大切にされるでしょうが、私たちの世代までは違いました。一方で、人間は十人十色です。得意不得意や興味関心も、人により異なります。それは男女の枠を超えたものです。

以前筆者は子育て支援をしていましたが、「子どものことは愛しいけど、上手なあやし方や遊び方がよくわからない。働いて保育園に預ける方が子どもと良い距離感でいられる」という女性や、「料理が苦手で1日3食が苦痛」という女性が少なからずいました。

こういった意見を口に出せる時代になって良かったと思う一方で、まだまだ一般的には認められにくいものかもしれません。「女だから料理も掃除もできて当たり前」「ママはいくら寝不足でも子どもの前では常に優しく笑顔で」といった普通を目指して頑張ってしまうのです。

我慢が美徳

日本では我慢を美徳とする風習があり、精神論がまかり通るところがあります。育児においても「母親なんだから」といった精神論で批判されることが少なくありません。子どもが生まれれば不自由でハードな生活になりますが、ママ自身も「私だけが我慢すれば家庭はうまく回るから」と我慢を美徳にし、精神論で通そうと頑張る声をよく聞きます。

家族にとっての最優先事項は?

親の記憶に、普通という概念に、精神論。目に見えないものがこれほどまでに母親像を支配しているとは、すごいことですよね。でも、時代が変わった今だからこそ、一歩先に進み、精神論で押し切るよりも現実的な具体策をとりたいところです。

母親業は何十年にわたることである一方、当たり前ですが母親も一人の人間。人間は自分が満たされていないと、他人を満たすことはなかなかできません。自己犠牲による不満は必ず周囲に伝わりますし、「お母さんにはお母さんの人生を歩んで欲しかった」という子ども側の声もあります。母親が笑顔で自然体でいることは、子どもも夫も望むところでしょう。

家族にとっての最優先事項は、家族全員が笑顔でいられることではないでしょうか。家族の笑顔のために日々の負担を減らすべく、家電やお惣菜や一時保育を利用したり、家事を減らしたり、いっそのこと止めてしまうことも必要でしょう(筆者はハンガーとカゴ利用で洗濯物を畳むのを止めました)。

体や頭の栄養も大事ですが、それ以上に大切にしたいのが「心の栄養」。全員が笑顔でいられるような具体的な家庭運営を目指していきたいものです。

宮野 茉莉子