昔話は「思い出補正」されている!?

「あの頃は今と違って〇〇だったから、もっと大変だったぞ。それに比べたら今のお前たちは恵まれてるよな~」とか、「俺が若い頃なんか、もっと△△したもんだぞ」とか…。若手サラリーマンたちに、白髪交じりのベテランが、赤ら顔に大きな声で独演会を開いている。

背筋を伸ばして真面目な顔で聞き入っているのは、今年の新入社員と思しき白ワイシャツに紺のスーツの若い男の子3人。仕事帰りのサラリーマンでごった返している居酒屋なのに、そこの卓だけ笑い声がない。運ばれてからどれくらい時間が経っているだろうか。大皿に盛られた焼き鳥たちは、おそらく冷め切ってしまっているに違いない。

先日、会社の部下から「反省会」を持ちかけられ、ならば美味しい焼き鳥と近海モノの刺身で大いに反省しようじゃないか、ということで繰り出した先で出くわした光景だ。

白髪交じりのベテランは、おそらく私と同年代。黙って聞いてる3人組を含め、全員きちっとスーツにネクタイの出で立ちだから、おそらく堅実な日系企業か? ポロシャツ、チノパンの自分を含めて、お気楽な服装の外資系中小企業とは全く違った雰囲気だ。

独演会の主だけは機嫌がいいのか、機関銃のように繰り出される主張の合間に、テンポよく焼き鳥を口に運んではグビっと喉を潤す。そしてまた同じような話が繰り返される。あの頃はよかった…あの頃はもっとキラキラしていた…。「あの頃」の思い出話に付き合わされることが、どれだけ退屈な時間であるか。

聞かされている側からしてみれば、その話はかなりの部分で「思い出補正」されているであろうと、ハナっから話半分で聞いているに違いない。

確かに自分自身の過去を振り返れば、これまで歩んできた我が人生のほとんどは色々あったはずなのに、辛かったことは都合よく消え去って、そこそこに順風満帆だったものとして、かなりの部分で補正されているのを認識できる。

憧れのデートカーと武骨なコンパクトカー

先日、ネオクラシックと言われるほどは熟成していないが、ノスタルジックな想いに浸れる年代のクルマに、続けて触れる機会があった。

1台は、その当時としては極めて先進的と言われる技術を盛り込み、さらにその先の進化を感じさせるような、いわゆる先端技術の結晶みたいなモデル。振り返れば、「デートカー」というカテゴリーを作り出し、当時の若者の憧れのクルマの代表選手であっただけに、その人気ぶりは凄まじいものがあった。

デザインからしても、スーパーカー世代にとって憧れのリトラクタブルライトを備え、その低くて精悍なフロントマスクからリアに至るまでのワイド&ローなボディは、まさにお洒落なデートにふさわしいと思わせる、素敵な佇まいであった。そしてこのクルマには、当時の日本の先進自動車技術を象徴する4WSが装備されていた。 

昔からどこへ行くにもクルマでの移動が前提であった私にとって、縦列駐車ができる場所探しは、まず最初に克服しなければいけない課題だった。路肩にギリギリ、イケるかイケないかのスペースを見つけるや、何度も切り替えした挙句に、見事に愛車を収めることができた時などは、今で言うところの、かなりの「ドヤ顔」であったと思われる。

そんな苦労をしていた私にとって、前後四輪のタイヤがステアリング操作で動くという事実は、その構造はなんだか難しくてよく分からなかったけれども、何度も切り返さずにスパッと一発で縦列駐車をキメることができるんだろうなあ~と勝手に期待を膨らませてしまう魅惑の先進装備であった。しかしながら結局この4WSなるものは経験できないまま現在に至っていたのであるが…。

もう1台は、私の中ではそれと対極に位置するクルマだった。30年前に新卒で入社したヤナセで、当時新入社員が新車で買うことを唯一許されていた、ドイツのコンパクトカーのお手本みたいなクルマ。

パワーステアリングとパワーウィンドウこそ装備されていたが、エンジンは何の変哲もない直列4気筒。3速のオートマチックトランスミッションは、Dレンジのまま信号待ちをしていると、クルマ全体がガタガタブルブルしてしまい、当時のデートカーとかハイソカーとか言われた、いわゆる快適なクルマたちとは目指す方向が正反対のクルマだった。

30年後の乗り心地は?

そんな対照的な2台、やはり数十年の時を経て再び触れてみても、全く対照的な感覚を受け取った。

まずは、憧れのデートカー。「あの時の憧れのクルマであの頃の想いを今再び…」と、思い出補正された純白に輝く懐古モードたっぷりで乗ったものの、当時の先進技術満載の乗り味には大きな違和感があった。自然に感じ取るべきものを、敢えて人工的なフィルターを通して、かなり意図的に味付けしたものとして感じさせるような、不自然な収まり悪い感覚だった。

一方、ヤナセ新入社員お約束エントリーモデル。武骨な乗り味は変わらないものの、30年前のひよっこの時には感じ取ることができなかった新鮮な面白さがあったのだ。

現代のクルマにはない、軽快感とカラダ中で感じ取れる「今走ってる♪」的な感覚に溢れていた。普段使う生活道路の曲がり角も、いつもと同じ速度なのに、入力信号はとても豊富で「走る」「曲がる」「止まる」の楽しさを久しぶりに堪能できたのである。30年前のクルマに今さらながら気づかされたことに、懐古主義とは真逆の、気持ちいいほどの「してやられた感」があった。

若かりし頃の修行不足の自分では気づくことができなかった「本質の素晴らしさ」を感じ取ることができたのは、ノスタルジックなクルマが持つ大きな魅力と言える。それは、思い出補正で美しく塗り替えられてしまった幻想をいつまでも追い求めて、こだわり続けることからは決して生まれることのないものに違いない。

鈴木 琢也