編集部より

フィデリティ投信(以下、フィデリティ)の元ファンドマネージャーで現在相談役である山下裕士氏に、日本の証券市場の歴史や今でこそ有名なあの企業の立ち上げ当時の様子を語ってもらいました。個人投資家にとっては貴重な情報が満載です。是非ご覧ください。

今回は証券恐慌の終局であった1965年頃から1978年4月に山下氏がフィデリティに入社する頃までの出来事を駆け足で振り返っていきます。

1964年の東京オリンピック当時はどんな時代だったか

――初めに、山下さんの証券市場とのかかわりについて教えてください。

私は大学卒業後、1960年(昭和35年)に大阪屋証券(現・岩井コスモ証券)に入社しました。大阪屋証券で証券アナリスト業務に従事した後、1978年(昭和53年)にエフ・エム・アール・コープ東京事務所(フィデリティ投信の前身)に入社しました。その後、同社で2000年まで資産運用・企業調査業務に携わってきました。

――証券アナリストとして調査をされていた1960年代はどのような時代だったのでしょうか。1964年には東京オリンピックもありましたが。

株式市場は、日経平均株価でいうと、1961年7月18日の1829.74円から65年7月2日の1020.49円まで44%も下げました。その後は下げ相場もようやく底入れしました。東京オリンピック開催の3年前、1961年まで株価は上昇してきたのですが、この年以降、オリンピック開催後も株価は下落していたことになります。

――東京オリンピックがあったので景気は良かったのではないでしょうか。

オリンピックが始まる前に「62年不況」があり、オリンピック後には「65年不況」がありました。ただ、1965年7月27日に国債発行方針を含む景気復興策が決定されたこともあり、景気は本格的に回復し、いわゆる「いざなぎ景気」から「列島改造景気」へとつながっていきます。

余談ですが、この時発行された国債は建設国債で、「景気が回復すれば発行を中止する」という福田赳夫大蔵大臣の談話がありました。しかし1975年には赤字国債発行の財政特別法が成立し、今日に至っています。

――そうした市場環境で特徴的な動きをした銘柄について教えてください。

大和ハウス工業は注目すべき銘柄でした。同社の当時の五百蔵専務に頻繁にお会いし、事業の有望性を確認しました。税引利益は1965年9月期(6カ月)231百万円に対し、1971年3月期(6カ月)4,073百万円と17.6倍に急成長しました。株価は1965年に60円でしたが、69年には63.8倍にもなりました。

マキタ電機製作所(現・マキタ)も、1965年の159円から1969年までの4年間で39倍の値上がりとなりました。景気後退期に次の成長株となる銘柄を探しておけば、大きく報われるという株式投資の醍醐味を実感したものです。

――その一方で、失敗した、絶好の投資機会を見逃したという銘柄はありましたか。

当然ありますし、投資経験が長ければ長いほどそうしたことは避けられません。1965年に愛知県丹羽郡大口町の大隈鉄工所(現・オークマ)を訪問した時のことは苦い経験として今でもよく覚えています。

本社前の広場で大勢の社員が草取りをしていました。社内に通され、担当者との面談でも「全く仕事がなく、回復の見込みもない」という話を聞かされました。当時、同社は赤字でしたし、無配でした。株価は40円程度でしたが、取材の結果、私はこの株は買えないと報告しました。ところが、翌週から株価は上がり続け、1カ月ほどで100円台になりました。私のアナリスト人生の中でも、大いに教訓になった案件でした。

――教訓という観点から、示唆に富む銘柄は他にありましたか。

この反騰相場の中で印象に残っているのが、大福機工(現・ダイフク)です。同社は自動車、家電などのコンベアメーカーです。1962年に進出したボーリング機械がブームに乗り、純利益は7年間で60倍に急成長し、株価も1965年から1969年までの4年間で約40倍に大化けしました。ただボーリングブームが去るとともに株価も大幅に反落しました。一過性の株高だった大福機工と本業が着実に伸びていった大和ハウス工業やマキタ電機製作所は対照的な動きとなりましたね。

1970年代に投資家のグローバル化が始まる-最初のレポートは任天堂

――1970年代に突入してから何か変化がありましたか。

1970年代に入ると、外国人機関投資家の対日投資が活発化する兆しが出てきました。フィデリティが東京に事務所を開設したのも1969年です。そうした動きもあり、大阪屋証券でも海外の機関投資家に対するアプローチを強化することになり、私は外国部の勤務を命ぜられました。外国部では海外機関投資家向け調査レポートの作成や投資家を訪問し投資アイデアをプレゼンテーションすることなどが主な仕事でした。

――初めに調査してレポートを作成された企業はどこだったのでしょうか。

外国人投資家向けに最初に作成した投資レポートは任天堂です。同社の工場見学をし、当時の山内溥社長のスピーチを聴いた際、花札メーカーから脱皮してビジネスモデルを変えていくという熱意を感じました。

玩具といえば100〜200円のものが中心の時代に、任天堂は1970年に発売した3,000円の光線銃をヒットさせていました。しかし同社は大阪証券取引所の単独銘柄であったため知名度は低かったです。私が初めて任天堂を知ってから10年も経っていましたが、当時の株価は360円前後と10年前とほぼ同水準に放置されていたのです。

しかし、その後、1980年には6,000円のゲームウォッチをヒットさせ、ファミリーコンピュータを世界で展開し飛躍していったことは皆さんご承知の通りです。

ライフスタイルの変化は投資の大チャンス

――任天堂以外の企業についてはいかがでしょうか。

次に公開したレポートは花王です。当時は電気洗濯機が急速に普及していった時代でした。それまでは固形の洗濯石けんが使われていましたが、電気洗濯機の登場により粉末の洗剤がそれにとって代わることによって、消費量が飛躍的に増えるのではないか、という極めてシンプルな発想からの推奨でした。花王とはフィデリティ入社後、再度大きくかかわることになりますが、その話は別の機会にでも…。

――テクノロジーの進化によって生活習慣(ライフスタイル)が変わる時は株式投資にとってもチャンスなのですね。そうした観点から面白い銘柄はありましたか。

カシオ計算機ですね。当時、20〜30万円もする電子式卓上計算機はありましたが、ほとんどの計算にソロバンが使われていた時代です。そこへ1972年に12,800円の「カシオミニ」が発売されました。これは私たちの仕事の仕方や生活も変えるのではないかと、ヒットを予感して推奨レポートを仕上げました。事実、発売後1年足らずで200万台突破というベストセラーになりました。

その他、人工腎臓に進出した日機装、宅配便に進出したヤマト運輸(現・ヤマトホールディングス)、タイムレコーダーや大型集塵機のアマノ、そして日本ケミカルコンデンサ(現・日本ケミコン)などが印象に残っています。

――生活習慣や消費者の変化を見逃して失敗したことはあるのでしょうか。

失敗例はカルピスです。業績が好調だったのとバリュエーション(株価評価)の安さから調査をして推奨しましたが、30〜40%の値上がりはしたものの、その後急反落しました。消費者の嗜好の変化に気づかなかったことと、単品経営の弱さを見せつけられた感じです。カルピスの例はその後のアナリスト人生における大きな教訓となりました。

――大阪屋証券時代で最も思い出のある銘柄は何でしょうか。

大阪屋証券在籍時代の最後のヒット銘柄はファナックです。1976年に東京証券取引所第2部に上場しました。上場後に山梨県忍野村まで出かけていき、当時の管理部長にお会いしました。私が最初の訪問者だったのかもしれません。ビジネスモデルからNC、 装置ロボットの将来性まで、分かりやすく説明してくれました。

私は早速推奨レポートを書き、世界中にその魅力を伝えました。もちろん、投資家の方々から大量の買い注文をいただきました。当時の株価は600円台でした。有望銘柄の発掘には労を惜しんではいけないということを改めて納得した次第です。

ここまでのまとめ

山下氏が大学を卒業し大阪屋証券に入社した後、日本で最も早い時期に証券アナリスト業務をしていた当時のお話を伺いました。山下氏の投資経験を伺うと、いかに私たちの暮らしの変化に投資機会があるかが分かります。個人投資家もぜひ参考にしたいものです。次回以降は、山下氏がフィデリティ投信に入社した後の出来事を伺います。

 

LIMO編集部