国語に知識が必要な理由とは?
え? 知識? 国語なのに? と思うかもしれません。ならばまず、知識の話をしておきましょう。
実は、国語ほど幅広い知識が求められる教科もないのです。国語の場合、「常識」といいかえてもよいかもしれません。何しろ、言葉によって描写・解説される対象というのは、森羅万象、あらゆるものごとです。幅広い常識を備えていないと、その文章が何をいっているのかちんぷんかんぷんになってしまう。そうなると、どんなに「地頭」のよい子でも、理解は遅くなります。
常識というのは、第1に、よく知られた対象を区別できることを意味します。「これは赤色、これはピンク色、これは紫色」というように、多くの「名前」を知っていることです。第2に、真偽、あるいは価値を区別できることを意味します。
「富士山は日本で一番高い山だ」「日本人は以心伝心を美徳としており、何でもかんでも言葉で表現しようとは思っていない」「困っている人には手を差し伸べるべきだ」などということを「知っている」かどうかです。
これには、体験的知識も含まれます。「優勝は準優勝とは全然違うね」「彼女のような人を、親友と呼ぶんだと思う」などというように。そういった常識を持っている人を、「大人」といいます。
そう、中学入試というのは、ひとことでいえば「大人な子」を求めているんです。さらにいうと、中学入試国語では、そういった常識を踏まえた上で、「逆説」も問われます。「これは本当にピンクと呼べるか?」「富士山は高さでは日本一だが美しさではどうか?」「日本人は本当に言葉で表現するのが苦手なのか?」「困っている人には、無条件で手を差し伸べるべきなのか?」「準優勝は劣るのか?」「それが本当に親友か?」などというように常識に疑問を呈する文章が、子どもたちに提示されます。あるいは、自ら逆説化して考え、文章化するように求められることもあります。
常識を持たないと、逆説にはたどり着けません。常識をいかに持っているか。と同時に、どれだけ常識を疑い、逆説を受発信できるか。
それが、「大人力」であり、「合格力」なのですね。しかし、それだけではやはり記述で合格最低点にたどり着くのは難しい。そこで、肝心な「技術」の話も書いておきましょう。