イギリスによる植民地支配の歴史
ナイジェリアは、かつてイギリスの植民地でした。1960年の独立を前に、新しい国旗のデザインが一般から募集され、3000もの応募作品の中から大学生の作品が選ばれました。ただ、実際に制定された国旗〈正解画像参照〉とオリジナルの応募作品には、1つの大きなちがいがありました。
アフリカ西部のギニア湾に面する国ナイジェリアは、ほかのアフリカ諸国と同様に、ヨーロッパによる植民地支配の歴史があります。
15世紀の末にポルトガル人が来航して以降、ナイジェリアは奴隷貿易の拠点となり、「奴隷海岸(英語でSlave Coast)」と呼ばれた沿岸部から多くの黒人奴隷がヨーロッパやアメリカ大陸に売られていきました。19世紀後半になると、今度はイギリスがナイジェリアに進出し、その後、ナイジェリア全域がイギリスの植民地となったのです。
1914年に成立した「イギリス領ナイジェリア」は、左肩にイギリス国旗を配した「ブルー・エンサイン(イギリス青色船舶旗)」と呼ばれる青地の旗に域章(地域の紋章)を入れた旗を域旗(地域の旗)として用いていました〈別画像参照〉。域章は赤い円形に緑色で「ソロモンの印章」が描かれ、中央には王冠とともに白字で域名の「NIGERIA」と記されていました。
3000もの応募作から選ばれた旗
ナイジェリアがイギリス連邦内の自治国として独立したのは、第2次世界大戦後の1960年のことです。独立にあたって国旗のデザインが公募され、約3000点の応募作の中から選ばれたのが、23歳のナイジェリア人大学生マイケル・タイウォ・アキンクンミの作品でした。
当時、ロンドンで工学を学んでいたアキンクンミは、独立の前年に、政府が新国旗のデザインを募集していることを新聞広告で知り、応募したのです。
アキンクンミの作品は、彼が飛行機から見た祖国の印象を描いたものでした。眼下に広がるナイジェリアの緑の森と広大な平野――。飛行機から、はるか地上を見下ろしたことがある人なら、このときのアキンクンミ青年の素朴な驚きや感動といった心の動きが想像できるかもしれません。
ところが、アキンクンミの作品と実際の国旗には、大きく異なる点がありました。
「忘れられた英雄」アキンクンミのその後
記事のトップ画像にあった旗は、アキンクンミのもともとの応募作品です。審査委員は中央の赤い太陽を不要と判断し、太陽を除いた緑と白の2色のシンプルな縦三分割旗を国旗としたのです。
ともあれ、アキンクンミは当時としてはかなりの金額の賞金を手にしたようです。
国旗の緑は「農業と森林」、白は「平和と統一」を表すとされています。この国旗は、1963年にナイジェリアが連邦共和国となった後も継続して使われ、現在に至ります。
ところで、国旗をデザインしたアキンクンミは、その後どうなったのでしょうか?
表舞台から姿を消し、仕事を引退した後は貧しい生活を送っていたアキンクンミでしたが、こうした「忘れられた英雄」への冷たい扱いに対して、多くのナイジェリア人たちが声を上げました。結果として、2014年にはグッドラック・ジョナサン大統領から、アキンクンミに勲章と、さらに生涯報酬が贈られました。
アフリカ一番の経済大国ながら政情には不安も
アフリカ最大の約2億人の人口を擁するナイジェリア。同国は産油量とGDP(国内総生産)でもアフリカ第1位を誇り、南アフリカ共和国を抜いて、いまやアフリカでもトップの経済大国となりました。
しかし、約250の民族で構成される多民族国家で、さらにイスラム教とキリスト教の二大主要宗教を持つこの国では、民族・宗教の間の争いが絶えず、共和国が成立した後も、内戦やたび重なる軍事クーデターが起きています。
近年ではイスラム過激派組織「ボコ・ハラム」のテロ活動が相次ぐなど政情不安が続いているナイジェリア。国旗の意味にもある「平和」を実現するまでには、もう少し時間がかかりそうです。
■[監修者]苅安 望(かりやす・のぞみ)
日本旗章学協会会長。1949年、千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。総合商社に入社し東京本店、ニューヨーク支店、メルボルン支店食品部門勤務を経て、食品会社の取締役国際部長、顧問を歴任し2015年退職。2000年より旗章学協会国際連盟(FIAV)の公認団体である日本旗章学協会会長。北米旗章学協会、英国旗章学協会、オーストラリア旗章学協会、各会員。旗章学協会国際連盟にも投稿論文多数。著書は『世界の国旗と国章大図鑑 五訂版』『こども世界国旗図鑑』(平凡社)、『世界の国旗・国章歴史大図鑑』(山川出版社)など多数。
この記事の出典:
苅安望[監修]『国旗のまちがいさがし』
クロスメディア・パブリッシング