「相場師」という言葉を聞いて、皆さんはどんな人物を思い浮かべるでしょうか? 今でいうと株式や先物取引を扱う個人投資家に近いものですが、金融・投資関係者を除けば、「最後の相場師」呼ばれた是川銀蔵(1897~1992年)をご存じの方は、そう多くはないでしょう。

 同氏は、なんと1983年の高額所得者番付で1位にもなったことのある相場師(投資家)です。今でこそ、日本での長者番付の発表はなくなってしまいましたが、当時の日本で最もお金持ちだった人といっても過言ではないでしょう。

 この記事では、アナリストやファンドマネジャーとして60年近くを投資の道一筋に生きてきた山下𥙿士氏の著書『伝説のファンドマネジャーが見た日本株式投資100年史』(クロスメディア・パブリッシング)をもとに、是川銀蔵がいかにして日本一の財をなしたのかとともに、彼が語った投資の心得について解説してもらいました。

極貧のなか、独学で経済を学ぶ

 1980年2月から83年2月にかけて、景気は64カ月の後退期でした。第2次オイルショックとアメリカにおける金利高の影響もあって、東証ダウは1981年8月の8019円から82年10月1日の6849円まで調整段階にあり、この頃の時価総額は81兆円、PERは22.8倍でした。

 業種別値上がり順位は、1981年のトップが電気機器、82年のトップは非鉄金属で、非鉄金属のなかでも目立った上昇をしたのが住友金属鉱山であり、その中心となって動いたのが「最後の相場師」といわれた是川銀蔵です。彼が90歳を超えて書き残した自伝などをもとに、その生涯に迫ってみたいと思います。(参考:『相場師一代』小学館文庫、『自伝 波乱を生きる』講談社、『最後の相場師 是川銀蔵』彩図社)

 是川銀蔵は1897年(明治30年)に兵庫県で生まれ、高等小学校を卒業後、神戸の貿易商のもとで奉公をしていました。数々の職業を経ながら、1938年から終戦までは朝鮮半島で鉄山と金山を開発し、鉱山経営に携わります。それに先立つ1927年の金融恐慌では、手掛けていた事業が倒産し、極貧のなかで3年間、大阪の中之島図書館に通って、独学で経済の勉強をしていたといいます。

 その成果を活かすべく、1931年、34歳のときに株式投資の世界に足を踏み入れました。1938年までにもそれなりの成果を挙げましたが、「日本の軍事力増強に貢献したい」との思いで朝鮮半島に渡り、鉱山開発に取り組む決意をしました。再び証券界に戻ったのは22年後の1960年、63歳のときでした。

大阪のニュータウン構想に着目

 この時期に是川が手掛けていた株式投資は、少ない資金で生活費をまかなう程度でしたが、その一方で、大阪府が堺・泉北の海を埋め立ててコンビナートをつくる構想があることを伝え聞きました。そうなれば、その近郊にベッドタウンが必要になると見込んだ是川は、資金力のある友人を説得して数十万坪の土地を購入します。

 読みは当たり、是川が買収した丘陵地に大阪府が泉北ニュータウンをつくるという構想計画が発表されました。買収時の坪単価が300円だったのに対して、1965年には坪1500円ですべてを売却し、3億円の資金を手にしました。この3億円は、その後の株式投資などによって76年には6億円になったといいます。

 この頃、セメント業界は第1次オイルショックの影響で未曾有の不況に陥っていました。是川はそこに目をつけ、日本セメント株を120〜130円あたりから目立たないように買い始めます。

 1977年7月、買い集めた日本セメント株は3000万株を超え、総発行株数の14.2%に達していました。政府は景気浮上を図るため、財政投融資を柱とした大型予算を組むことに決定したため、セメント業界の業績は急回復し、株価も順調に上昇、是川は3000万株をほぼ300円台で売却し、30億円の儲けを手に入れました。

是川の3つの心得

 次に目をつけたのが同和鉱業(現:DOWAホールディングス)株です。非鉄金属相場とともに安値圏にあった同和鉱業株を、これまた目立たぬように買い始めました。1978年11月に145円の底値をつけましたが、その前から買い集めており、本人名義で1200万株、家族・友人の名義で1000万株の合計2200万株、全発行株の10%の名義を書き換えます。それまでの筆頭株主である日本興業銀行の1403万株を上回っていたのです。そして、ピークで6000万株を所有していました。

 非鉄金属相場も、1979年1月を底に反発し始めました。株価は当初500円を目標にしていましたが、予想以上の環境の好転と市況の上昇を見て、目標を1000円に引き上げました。事実、80年1月には900円まで上昇、皮算用では300億円の大金をつかんだはずなのですが……。

 同年3月に世界最大の銀投資家・ハント一族が資金繰りに行き詰まり、銀相場が大暴落。余波を受けた日本の市場でも非鉄金属相場は一斉に総崩れとなり、同和鉱業株も3カ月後には300円にまで大暴落しました。

 是川は、株式投資の基本として3つの心得を述べています。

「過大な思惑はせず、手持ち資金の中で行動する」
「株価には妥当な水準がある」
「値上がり株の深追いは禁物」

 是川ほど勉強し、経験を積み重ねても、自分を律することがいかに難しいことかがわかるかと思います。

「もう株はやらん」と言いながら……

 同和鉱業の失敗で「もう株はやらん」と一度は決心した是川でしたが、1981年9月18日、日本経済新聞の「金属鉱業事業団、鹿児島県菱刈金山に高品位金鉱脈を発見」という記事を読んで、にわかに興奮したといいます。

 かつて朝鮮半島で鉄山と金山を開発し、鉱山経営をやった経験から判断して、その鉱区権者の住友金属鉱山に大変な興味を持った是川は、さっそく、菱刈金山の現場を訪れました。そして、そこに大金鉱脈が続いているとの確信を持ったのです。

 翌日には十数社の証券会社に買い注文を出しており、当時の株価は220~230円、10月に株価が500円を超えた頃、同社の藤崎社長から「会いたい」との電話がありました。そのときすでに発行株数の16%にあたる5000万株以上の株を所有していたのです。しかし社長と技術部長に大金鉱脈があると説明しても、2人からは「ありえない」という返事が戻ってくるだけでした。

 株価は売り方・買い方がそれぞれ参入し、翌1982年2月25日に772円の高値をつけた後、3月には420円で売られるという波乱含みの様相を呈していました。

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高額所得者番付の第1位に

 そうした中、1982年3月17日付の日本経済新聞に「国内最大級の金鉱開発 住友鉱山8月着手 鹿児島 推定埋蔵100トン」という記事が出てからは、市場の空気が一変しました。人気沸騰の状態となっていったのです。市場では、1000円の目標値が3000円に変わるほど強気一辺倒となっていました。ただ、同和鉱業の失敗に懲りて、市場の強気にかかわらず、是川は1000円台ですべての持ち株を売り切りました。

 翌1983年の高額所得者番付で是川は第1位になり、80歳台の老人が200億円もの資産をつくったと伝えられています。ただ、当時の税制では、所得税と住民税を合わせて85%の課税がなされていました。

 その後の投資戦略は、本田技研、松下電器、富士フイルム、不二家といった銘柄に移っていたと本人は話しているものの、おそらく一生、株はやめられなかったのでしょう。その後は相場に失敗。1992年に95歳で亡くなったときには、なんと約24億円もの借金があり、遺族は相続放棄したと伝えられていますが、真偽のほどは確かめるべくもありません。なお、住友金属鉱業の値上がり率は、1981年が100%、82年は135%でした。

 極貧から勉学を積み、自らの努力で相場師として切り拓いていった人生。しかし、結局は「欲望が際限のない欲望を生む」という言葉の示す通り、相場の失敗により莫大な借金を抱えてしまうことになりました。是川は私たちに「投資の心得」を身をもって教えてくれたのかも知れません。


■ 山下 裕士(やました・ひろし)
 フィデリティ投信 前相談役。大学卒業後、1960年に大阪屋證券(現・岩井コスモ証券)に入社。証券アナリスト業務に従事した後、1978年にエフ・エム・アール・コープ東京事務所(フィデリティ投信の前身)に転職し、資産運用・企業調査業務に従事、長くファンドマネジャーを務める。資産運用の世界では例外的なほど長期にわたる経験を持つ数少ないプロフェッショナルの一人であり、驚異的な運用成績とともにその企業調査手法や市場への視点は、プロの投資家・アナリストたちからの尊敬を集める。フィデリティ投信の相談役などを務めた後、2019年に退任。

 

山下氏の著書:
伝説のファンドマネジャーが見た日本株式投資100年史