瀬戸内国際芸術祭の開催でも有名な小豆島の島内には、昔懐かしい給食メニューを銀色のアルマイト食器で楽しむことができる「二十四の瞳 映画村」があります。

給食セットを食べたあと、穏やかな瀬戸内海や昭和初期の街並み、レトロな木造校舎を眺めながら散策していると、知人の現役教師から聞いたある言葉が頭をよぎり、給食の始まりや役割について無性に知りたくなりました。

そこで今回は、給食の歴史をおさらいし、教師たちが直面する現在の給食の問題を見ていきます。最後には昔懐かしい給食や現在の給食を楽しむ方法についてもご紹介します。

給食の始まりと歴史

「二十四の瞳 映画村」教室(筆者撮影、以下同)


日本で給食が始まったのは今から130年以上も前の明治22年(1889年)、大日本帝国憲法が発布された年です。当時は貧しい家庭が多く、就学率も低かったため、山形県鶴岡町の大督寺(だいとくじ)が本堂の一部を利用して「私立忠愛小学校」を開校し、昼食を無料で提供したのが始まりとされています。

お弁当を持ってこられない子供たちのために、お坊さんたちが家々をまわってお金やお米をもらい、おにぎりや魚、漬物などを提供したというのですから頭が下がります。

給食の実施と食糧不足による自然中止

「二十四の瞳 映画村」昭和の街並み


給食発祥の地となった「私立忠愛小学校」は、残念ながら火災によって明治30年(1897年)に焼失していますが、給食制度は寄付金などをもとに戦争によって自然中止となるまで継続されました。

また、明治40年(1907年)には、広島県大草村義務奨励会による給食の提供が行われたほか、秋田県の小学校では貧困児童のための給食がスタート。その後、貧困児童の救済や栄養改善の目的で給食は全国に広まりました。

しかし、第二次世界大戦が太平洋戦争という局面を迎えた昭和16年(1941年)、食料不足が原因で全国的に給食が中止されてしまいます。例外として、栄養不足の児童には戦時中も無償で食事が提供されたこともあったようです。