高齢者の運転は制限すべきだが、それは政治的には難しい、と久留米大学商学部の塚崎公義教授は考えています。

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高齢者が運転する車による痛ましい事故が多数報道されています。そこで、悲劇が繰り返されないために「高齢者の運転を制限すれば良い」と筆者は考えているのですが、実際には難しい問題も多そうです。

権利は重要だが、その濫用は許されない

人は様々な権利を持っていますが、その権利は他人に迷惑をかけない範囲で行使する必要があります。誰にでも大声で歌を歌う権利はありますが、それは静かな図書館の中では行使してはならないのです。

それと同様に、自動車を運転する権利も、他人を傷つける可能性が高い場合には行使してはならない、と筆者は考えています。もっとも、自動車を運転する権利と、自動車に殺傷されずに生活する権利の折り合いをどこで付けるのかは、難しい問題です。

便利なものは危険です。便利さと危険の折り合いをどこで付けるのか、という問題もあります。極論すれば、自動車メーカーに対して「すべての自動車は時速20キロ以上で走ることができないように作れ」ということも考えられるでしょうが、人々のバランス感覚としては、今少し便利さを重視する方向に傾いているようです。

では、高齢者の運転は禁止するべきなのでしょうか。運転が上手な高齢者もいますから、一律に高齢者の運転を禁止することは問題が多いでしょう。そこで、原則としては禁止するが、テストに合格した場合には例外的に免許の更新を認める、という制度が良いと思っています。

腕に自信のある高齢者については、毎年「シミュレーターで運転の腕と乱暴さを調べ(あるいはドライブレコーダーの記録を提出させてチェックし)、若者並みの点数をとった場合のみ合格」といったところでしょうか。

もっともこれは、以下のような理由で政治的に難しいでしょう。そこで、不合格者には強く免許返納を促し、拒否されたら「時速40キロ以上出せないように改造した車だけ運転して良い。しかも、都会には乗り入れてはいけない」といった条件付きで更新する、というあたりが現実的なのでしょうね。

多数が小さなメリットを受ける案は推進運動が起きにくい

「高齢者の運転を禁止するメリットがデメリットより大きい」と筆者は考えますが、それでも禁止法案は政治的に通りにくいかもしれません。実際、大きな事故が起きて世論が規制を求めているように見えますが、政府の規制強化の動きは緩慢です。

その理由について、案が通ると少数の人が大いに困る一方で、案が通らないと多数の人が少しだけ困るからではないか、と筆者は考えています。

案が通ると、田舎に住んでいる高齢者は困ります。公共交通機関が発達していない地域では、車を運転しないと生活に大いに支障をきたすからです。そこで、彼らは必死で反対するでしょう。

一方で、案が通らなかった場合、高齢者の運転する車に跳ね飛ばされるリスクは全国民に残るわけですが、個々人が被害者になる確率は小さいものです。つまり、一般国民は具体的に何か困るわけではなく、被害者になる確率も低いならば、積極的に「案を通せ」という運動を展開するほどのインセンティブは持たないのです。

多くの人が少しだけメリットを受ける場合、全体としてのメリットが大きくても、推進運動は起きにくいので、反対運動に負けてしまうことも多いのですね。

これは、農産物の輸入自由化と似ています。少数の農家が必死で反対する一方で、大勢の非農家は「安い輸入農産物が買えるなら少しは嬉しいが、わざわざ輸入自由化のための運動をしようとは思わない」と考えるので、反対運動ばかりが目立つ、というわけでしょう。

誰が被害者になるかわからないから運動が起きにくい