高齢者の事故の被害者になる人が一定数いるとしても、自分が被害者になるか否かは事前にはわかりません。そこで、「多分自分は大丈夫だろう」と思って反対運動をしない、という場合も多いでしょう。

一方で、運転を禁止される人は事前に分かっていますから、反対運動に参加しやすい、というわけですね。

慎重な議論が必要な問題ですが、筆者は刑法の「疑わしきは罰せず」とも共通する部分があるように思います。「容疑者は、99.9%の確率で連続殺人犯人なのだが、決定的な証拠がない」という場合は、収監できないので容疑者は「野放し」になります。

それは、容疑者の人権を考えれば当然のことなのでしょうが、「その人物が次の殺人事件を犯す可能性は高く、その被害者の人権も考えれば、収監すべき」という考え方も成り立ち得るでしょう。

その割に、「疑わしきは罰せず」に対する反対運動はあまり聞きません。それは、誰も自分が被害者になるとは思っていないから、反対運動をする必要を感じていないからでしょう。

筆者はどうかと言えば、もしも隣人がそうした人物であれば、猛烈に反対運動をするかもしれませんが、その前に引っ越しするでしょうから、結局反対運動はしないかもしれませんね(笑)。

自動運転を早く認可すべきかも

自動運転の技術は、相当進んできているようです。「稀に事故を起こす可能性があるので、未だ認可はされていないのだ」と筆者は認識しています。

しかし、筆者の認識が正しいのであれば、早急に認可すべきでしょう。「技術が完璧でなくても高齢者の運転より安全なら良い」という判断基準で構わないと思います。

まあ、認可する担当者としては、「万が一の事故の場合、認可した自分が責められる」と思うと怖くて認可できない、ということかもしれませんので、そこは「自動運転車の事故率が高齢者の事故率より低ければ、認可した担当者を非難しない」というルールが必要かもしれません。

最後になりましたが、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被害に遭った方々にお見舞いを申し上げます。

本稿は、以上です。なお、本稿は筆者の個人的な見解であり、筆者の属する組織その他の見解ではありません。また、厳密さより理解の容易さを優先しているため、細部が事実と異なる場合があります。ご了承ください。

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塚崎 公義