近ごろニュースなどでも話題になっている、「体罰」。実の親から子への体罰や、学校での部活動内においての体罰など、“体罰”という言葉が当てはまるケースはさまざまです。

部活動内においての体罰は、ひと昔前に行われていたもののように感じる人がいるかもしれませんが、今もまだ根絶しきっていないのが現実。なぜ指導者たちは、部活動内で生徒へ手を挙げてしまうのでしょうか。

指導者世代には体罰を当たり前のように受けてきた人が多い

“蛙の子は蛙”という言葉があるように、部活動の指導者たちのベースとなっているのは、自分が生徒の立場であったときに受けてきた指導方法。“あのときの経験が大きな力になった”と考えている人ほど、自分が生徒時代だったころの指導者から受けた指導方法が深く身についています。

時代の流れとともに、指導者の立場に立つ人たちの年齢も低くなってきました。しかし、名門と呼ばれるような学校ではまだまだベテランの重鎮たちが居座っているケースも多く、昔ながらの体質がぬぐいきれていないところもあるようです。

“体罰”というのは昔からある言葉ですが、この言葉がよく使われるようになったのは平成の後期に入ってから。部活動の顧問が体罰を加えたことにより、相手方の生徒が自殺をしてしまったというニュースをきっかけに、“体罰=問題”という考えがより一層浸透したように感じます。

高校生が自ら命を絶つという選択をしてしまうほど、体罰の力で追い込んでいった顧問。実際にこの顧問は、このように語っています。
「自分もそのように指導されて強くなっていった。顧問の先生についていけば全国大会に出られるという思いを持っていたので、自分が生徒の頃はシバかれても体罰だと思わなかった。」
やはり、自分自身も体罰を受けてある程度の成績を収めてきたうちの一人だったのです。

“手を出さないと生徒を強くすることができない”という間違った考えが、体罰という行為の絶滅を阻止してしまっているのではないでしょうか。

体罰を受けながら指導された選手は自主的に考える力が低い

実は筆者も、学生時代スポーツに人生を捧げていた人間の一人。無名校から強豪の大学へとスポーツ推薦で入学させてもらったのですが、そのときに感じたのは“体罰の無意味さ”でした。

その大学にいた監督・外部コーチともに、そのスポーツをやっていない人でも知っているような超有名実業団や高校の指導者としてキャリアを重ねてきた人。どちらも、“体罰ありきでの指導”がベースとなっている人たちでした。

一方私は、体罰を一切受けずに指導されてきた人間。入部して数ヶ月経ち、監督・コーチの本性が見え始めたころには、“しょうもない人たちだな”という感情が芽生えていました。

無名校出身の私とは違い、先輩・同期たちは超有名校出身のエリートたちばかり。一流のメンバーたちが揃う中で、最初は劣等感に苛まれていた私。しかしそんなメンバーたちと一緒にいるうちに目が肥え、プレーに磨きがかけられたことは今でも私の財産となっています。

エリートたちと練習を重ねる中で、ある一つの疑問が浮かんできました。練習中にミスが続き、監督・コーチが追い込みを始めたときのこと。「なぜそうなるかわかるか?」という指導者側からの質問に対し、そのときコートに立っていた選手たちは回答をしようとしません。自分の言葉を発そうとしない選手に対して、今すぐにでも手を出しそうな監督・コーチたち。私は“なぜ答えないんだろう”と不思議に思っていたのですが、どうやらチームメイトたちは自分の考えを言葉にすることが苦手なようなのです。

チームメイトである先輩・後輩たちは、高校時代ミスをするたびに体罰を加えられてきた人たちがほとんど。小学生の頃からそのスポーツを始めている人たちばかりでしたが、ずっとずっと“ミスしたら体罰”という流れで指導されてきているのです。その影響で、自分の考えを持ってプレーするのではなく、“ミスしたらたたかれる”という恐怖心からプレーすることがベースとなってしまっています。

もちろん、体罰を加えられてきたメンバーばかりではなかったので、“自分がなぜ今こういう動きをしたのか”というメンバーもいました。しかし、間近で見ていてもその差は歴然。体罰の力で選手たちを支配するというのは、自分の考えを育てるという機会までをも奪ってしまうのだなと実感した瞬間でした。

体罰を加えることのほうが簡単