ブハラもシルクロードの交易拠点として栄えたオアシス都市です。サンスクリット語で「修道院」を意味するそうです。人口は約28万人。世界中から商人・旅人らが集まり、多様な民族がこの土地で生活しています。ウズベク人、タジク人、ユダヤ人、アラブ人、インド人、ペルシア人、モンゴル人、トルコ人等々です。
日頃、多民族国家と言われるマレーシアに住む筆者ですが、マレーシアの民族はマレー系、華人系、インド系くらいですので、ブハラの多民族さはマレーシアの比ではありません。
町の歴史を遡ると、12世紀以来、破壊、復興、征服といった厳しい時代を乗り越えてきています。1220年、チンギス・ハンの襲来で町は破壊されましたが、16世紀にウズベク人のシャイバーン朝により復興し、20世紀初頭までブハラ・ハーン国(ブハラ・アミール国)の首都として栄えました。
19世紀後半にはロシア帝国によって征服され、植民地になりました。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、新たに新市街地(ウズベク語ではカガン)と言う近代都市を作りました。そのため、ブラハの旧市街地は今も歴史的な姿のままで、1993年にはブハラ歴史地区としてユネスコ世界文化遺産にも登録されています。
日本からのツアーが続々、観光地ブハラの課題
地場産業としては農業以外にこれといった産業はありませんが、観光資源に恵まれ、町は観光地として生きています。町の人は観光客に優しく、道を尋ねると子供まで親身になって教えてくれます。
ブハラの観光資源としては、たとえばタキがあります。大通りの交差点に作られたバザールで、カラフルな布地、毛布、陶芸といったシルクロード民芸品が並びます。もともとは関所のような役割も果たしていたそうです。
また、ナディール・ディヴァン・ベギ・メドレセは旧市街にある歴史的建築物のひとつ。偶像崇拝を禁じるイスラムには珍しく、鳳凰や鹿、顔のある太陽が描かれています。
また、高さ47mのカラーン・ミナレット(塔)は、1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンによって建てられたもの。中庭の周辺を青いドームの回廊が囲むようになっていて、晴れた日には空の青さのようなタイルが美しく映えます。
ただ、問題は色々あるようです。ここはYandexタクシーの配車サービスでカバーされていないため、昔ながらのタクシードライバーとの個別交渉になります。一部の遺跡では「Wifi」の表示がありますが、グーグルマップなどでは目印になるような建物の記載が少なく、観光インフォメーションに町全体のマップもありません。観光地としてブレークするには改善の余地がありそうです。
そんな中でも、日本人のビザは滞在30日間まで不要になり、レストラン外食などのコスパは素晴らしく、観光資源も多いことから、日本からの観光ツアー客は続々と来ているようです。世界中を行き尽くしたに日本人観光客にとっても、まだ未知の土地なのでしょう。今後も、さらに多くの日本人観光客が来ることが期待されています。
大場 由幸