シルクロードの中央に位置するウズベキスタン。砂漠地帯ですが、東部には天山山脈がそびえ、川がいくつも流れています。そのウズベキスタンの都市といえば、現在の首都タシケント、そして古代から中心都市として存在したブラハとサマルカンドが知られています。
仕事でウズベキスタンに数カ月滞在する機会を得たので、まずはタシケントとブハラについて、多民族が交わるシルクロードのオアシス都市の歴史とそこでの日本人の存在感などを考えてみます。なお、後編ではサマルカンドを取り上げます。
タシケントの歴史と市民の親日感情
タシケントはウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川流域に位置する歴史的なオアシス都市です。テュルク語で石の町という意味で、人口は約240万人。古代からオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として繁栄しました。
1865年、帝政ロシア軍が侵攻してタシケントを直轄領に組み入れ、ロシアの中央アジア支配の拠点としました。旧市街の外側にロシア人が住む新市街ができ、ロシア人商人などが移住してきました。
ロシア革命後にトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国になると、中央アジアの覇権をめぐりロシアと英国が衝突。1924年にウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年にサマルカンドに代わって首都になりました。
1966年には大地震が発生し、7万8,000棟の家屋が倒壊。地震後に計画的な都市作りが行われ、ソ連のような町並みとなり、最盛期はソ連で4番目の都市に発展しました。ウズベキスタン独立後の今でも大きなロシア人社会を抱えています。
そのタシケントで、市民の日本人に対する印象を作っているのが中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場、ナヴォイ劇場です。戦後シベリアに抑留されていた日本人捕虜がタシケントに連行され、この劇場の工事に駆り出されました。1966年の大地震の時にも無傷だったことが、タシケント市民の親日感情にプラスに影響しているようです。
筆者がタクシーでナヴォイ劇場に向かってくれとお願いしたら、日本人かと聞かれました。いつもは必ず韓国人かと聞かれるのに、その時だけは日本人かと聞かれたのが印象的です。この劇場と日本人の関係は記念碑になっているので、ドライバーの認識にあったのかもしれません。
現在、ウズベキスタン在留邦人数は132人(2017年10月時点:外務省)とわずかで、様々な事情で現地に暮らす日本人にとっては、日本企業にもっと来てもらいたいというのが実感のようです。それだけ日本人や日本企業の影は薄いのです。プレゼンスが大きいのは韓国人(含む韓国系2〜3世)と韓国企業で、中国人はあまり見かけません。
歴史的な都市で使える配車アプリ
各駅が美術館のような佇まいのタシケント地下鉄、値段交渉による路上のタクシー、ヒッチハイクと言った町の光景の中、最近はスマホさえあればデータ通信を使って配車アプリでYandexタクシーを頼めます。
このYandexという配車アプリ会社(NASDAQ上場企業)は1997年にロシアで設立され、現在そのサービスはロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、トルコ、そしてウズベキスタンをカバーしています。
ウズベキスタンにアーリーアダプター(新たに現れた革新的商品・サービスを比較的早い段階で採用・受容する人々)はどれくらい存在するのかまだわかりませんが、Yandexのような新しいサービスに飛びつくのはやはり若者です。
こうした状況を見ると、若い起業家や民間中小企業が国営の企業・銀行主導による経済の歴史の中でどれくらい活躍しているのか、タシケントの若者は何に興味があり、何を目指しているのかとても興味深いところです。
昨年来、日本の商工会・IT等関係者はデジタル国家エストニアへの「視察会」が目白押しで、現地で敬遠され始めているようですが、未開拓なウズベキスタンという市場(人口3,240万人)とそこの若者消費者や起業家にも注目してもらえれば、近い将来、良い意味で日本人の存在感を高めることができるかもしれません。