「三角関数」と聞くと、高校時代、数学の時間に苦労したことを思い出す人も少なくないかもしれません。そんな三角関数が、先日、ネット上で議論の中心となりました。

発端となったのは、2019年1月1日に放送されたAbemaTVの番組内での前大阪市長・橋下徹氏の「三角関数は生きていくのには必要な知識ではないのだから、選択制にすればよい」という旨の発言です。

興味や面白みを感じない生徒には不要!?

加えて、橋下氏は自身のTwitterでも、

「興味や面白みを感じない生徒には、それ以上突っ込んだ三角関数の計算の演習は不要」
「今はあまりにも『死に知識』が多いシステム」

とも投稿しており、ネット上で物議を醸しています。

噴出する「死に知識」発言への批判

特に三角関数を「死に知識」と評したことに関して、

「必要だったかどうかは本人が学習してからじゃないとわからないのでは」
「自分が使わない知識を必要ないと言い切れる感性ヤバい」
「興味や面白みを感じない生徒は学ぶ必要がないって、教育なんかしなくてよいって言ってるのと同じでは」

などと否定的な意見が多く挙がっています。

また、橋下氏の「大まかにでも職業教育を行い、自分の進路をある程度見定めて必要なことを徹底して勉強していくべき」という旨の言葉に対しては、

「突き詰めれば金銭的価値を生むかどうかだけが重要で、知性ある人を育てようとは思ってないんだろうな」
「教育は、その人が何になるかわからないから何にでもなれるように広く浅くでやってるのに、これだと結果として職業選択の可能性を狭めることになっている」

といった批判がなされています。

根が同じ問題はこれまでにも

こうした「教育の実用性」についての問題は、これまで幾度となく話題になっています。2014年には文科省の有識者会議で、「G(グローバル)型大学/L(ローカル)型大学」という分類を行い、「一部の大学(=G型大学)を除いて、ほとんどの大学(=L型大学)は職業訓練校になるべき」という趣旨の提言がなされ、波紋を呼びました。

L型大学のカリキュラムは、「文学部はシェイクスピアや文学概論ではなく、観光業で必要になる英語、地元の歴史・文化の名所説明力を身につける」など、実務的な内容に偏っており、ネットでは、

「日本の文化崩壊につながる」
「教育格差がますます広がる」
「L型の教育科目、近いうちに全部AIで代替できそう」

と非難する声が大半を占めました。

必要なのは「人間だからできること」

また、2018年春には、現行のセンター試験に替わって行われる「大学入試共通テスト」や学習指導要領の変化から、明治大学の伊藤氏貴准教授が「高校国語から文学が消えるのでは」と危惧する声を上げ、これについても議論が起こっていました。

こうした議論を見るに、AIなど技術が発達していく中で、「知識やスキルを詰め込むだけではやっていけない」というのが多くの人の考えに共通していると考えてよいでしょう。

単調な作業は機械やAIに取って替わられるから、というだけではありません。科学技術が急激に発展していくと、たとえばAIや遺伝子操作、あるいはテクノロジーの軍事利用など多くの先端分野で、「その技術を社会の中でどう位置づけるか」「どこまではやっていいのか、どこからはやってはいけないのか」といった倫理的な問題が出てきます。これは社会全体で考えていかなければならないことです。

そして、そのためには、単にテクニカルな知識・実用的な知識だけではなく、社会・政治・歴史・哲学など幅広い知見が求められることになります。

教育に実用性をどこまで求めるか

こうして先端技術の分野で「倫理」などを問われる機会がこれから増えていくことは目に見えており、上記のような議論の中で「役に立たない」と言われてきた歴史や哲学・文学・芸術などが非常に重要となってくる時代は、実はすぐそこまできているとも考えられます。しかしながら、現在の大学が「就職のための存在」になりつつあること、あるいは政府や政治家、政治的権力を持つ人たちから発せられるさまざまな発言・構想からは、そういった流れに反するものも多く感じられます。

「役に立つ」とわかっていることだけを行うことが、これからの教育のスタンダードとなってしまうのでしょうか。教育に実用性をどこまで求めるのか、今一度、問い直したいテーマです。

クロスメディア・パブリッシング