いつも使っているスマホやパソコン、時計やペン、あるいはフライパンや包丁……。われわれは、実に多様な道具に囲まれて過ごしています。これらは一般的に、人類の脳が賢く発達した結果としてつくり出せるようになったと思われています。

ただ、オックスフォード大学のコンピューターサイエンス学教授で、英国トップクラスの人工知能研究者であるナイジェル・シャドボルト氏は、「話はそう単純ではない。むしろ、私たちの脳や心、本能などはすべて、『道具を使うこと』によって形づくられた」と話します。

同氏は、経済学のエキスパートであるロジャー・ハンプソン氏との話題の共著『デジタル・エイプ』の中で、「道具と人類の関係」について詳しく触れています。同書から、われわれ人類が数百万年にわたって進化してきた足跡を振り返ります。

道具が私たちをつくり出した

私たちは「手に斧を持って」生まれてきた。いまこの記事を読んでいる人はみな、進化の結果、斧をつくり、それを使うのに最適な姿をしている。あなたがこの文を読めるのも、ハンドアックス(握斧/にぎりおの)の文化に育てられた脳のおかげである。

ホモ・サピエンスになるはるか前、私たちは道具を使う高等なサルであり、道具を使うホミニン(ネアンデルタール人やホモ・エレクトゥスなどを含むヒト族)と共存していた。私たちは道具をつくって利用する技術に熟達し、道具について子どもたちに教える技能を向上させた。このことは、言語と、それに伴う自己意識を持った複雑な観念の発達に先立つものであり、必要条件だった。

現生人類の脳は、道具の使用によって広範囲に、そして繊細に調整された。石器は遅くとも330万年前には使われていたが、ホモ・サピエンスが現れるのは約25万年前である。ホミニド(ヒト科)の脳は、私たちが登場する前に、20万世代以上にわたる道具との関係の中で、道具の使い方に適応するように進化した。

要するに、私たちが新たな道具をつくったのではない。新たな道具が私たちをつくり出したのだ。

私たちの脳・心・本能・神経系・指の形・腕の長さ……それらはすべて、「道具の使用」によって育てられ、形づくられたのである。

種の存続を支えた「4つの道具」

もちろん進化はそんなに単純ではないが、道具の使用が原動力になったことは間違いない。私たちに先立ついくつかの高等な種は、200~300万年の間、安定して存続した。ホモ・サピエンスがこれまで何とか絶滅せずに生き延びてきた時間の10倍の長さである。その間には多くの出来事があったはずだが、大部分はまだ科学の光を当てられていない。

ホミニンの初期の段階から、「斧」「火」「シェルター」そして「衣類」という4つの道具の使用が種としての存続に欠かせなかったことは、疑う余地がない。また、こうした道具を使うために、それまでの進化の成果以上に複雑な脳と、それに基づく行動パターンが必要になったことも確かである。

こうした要素がどのように組み合わさっていたかについて、学者たちは激しい議論を続けているが、結論にはほど遠い状況だ。だが、重要な事実ははっきりしている。それらの要素はすべて「道具」がなければ発生しなかったことと、複雑な道具を使うホミニンの進化は、ホモ・サピエンスの出現より優に100万年は早かったことである。

脳をめぐる好循環

当然、現代の心理学や脳科学、社会学、人類学は、ハンドアックスと人類の関係を十分に考える必要がある。こうした視点を前面に打ち出した最初の著名な学者が、人類学者・地質学者であるケネス・P・オークリーだ。大英博物館は、彼の書いた『石器時代の技術』という短い本を1949年に刊行している。この本で論じられているのは、人類の進化の原動力となった主な生物学的特徴は、私たちの精神と肉体の共同作用であり、中心となったのは「道具の製作」だということだ。

以来、この研究の系譜は、幅を広げながら脈々と続いている。ここ15年間は、ジョージア州アトランタにあるエモリー大学の神経科学者ディートリッヒ・スタウト教授と世界各地の仲間が中心となって、被験者が斧の使い方を学んでいるときの脳をスキャンする研究が展開されている。

初期の人類は何十万年もかけて徐々に斧を改良した。最初はおそらく尖った硬い石を見つけるだけだったが、次第に、狩りや戦い、シェルターの建設における斧の価値に気づいていった。何十万年もの間、地球のほとんどの地域でハンドアックスは必需品だった。考古学的な証拠は、その間にハンドアックスが使われ、継続的に使い方が改善されたことを示している。その中で脳が次第に大きくなり、大きな脳が消費するエネルギーを充足させる余剰の食料が手に入るようになると、社会はより複雑化し、生産力を高めた。

ヒトは偶然に知性を持ったのではない

この古代の歴史は、「現代を生きる私たちが、道具を使うことによってどうなっていくか」を考える上で非常に重要である。人間は、さまざまなことができる汎用の能力をたまたま手に入れた結果、偶然、知能を持った高等生物になり、マシンや、産業用電子機器が生み出すその他のデバイスを使えるようになったのではない。ヒトという特別な種類のサルは、道具を使う機会に満ち、道具の使用に依存した「それ以前の世界」の中から出現したのだ。

脳は、社会的ネットワークと社会的行動が発達するのに伴って発達した。それと並行して、ハンドアックスと火と衣類をつくって使う技術が発達し、同時に言語も発達した。これらすべては相互に影響し合いながら進んだ。そうして改良された脳は、ますます多様な役割を果たせるようになった。

このようにして、人類の祖先は身体的スキルと知的スキルを急成長させた。それらを最もうまく達成した者たちが自然淘汰と性淘汰の競争に勝利しただろう。次の世代の脳は、必要とされる形に少しだけ近づく。それが何千世代も繰り返される中で、認知機能と話す能力が発達していったというのだ。

「調理」が進化にもたらしたもの

「火」も、先史時代の人類が依存するようになった主要な道具である。石器の加工技術が次第に向上し、衣類とシェルターをつくるようになったのと並行して、暖を取り、調理をするための熱源が登場した。

すべての哺乳動物にとって、「消化」は大変な化学作用と労力が必要なプロセスであり、食べた食物のエネルギーの相当な割合を消費する。しかし、赤道帯や熱帯では落雷による火災が頻繁に発生し、焼け跡に偶然、栄養の豊富な食物(=不幸にして火災で焼け死んだ動物)が残されることがあった。これはつまり「部分的に前もって消化された肉」といえる。

ハーバード大学のリチャード・ランガム教授が強調しているが、私たちの祖先は、温帯に住む自分たちの周りで自然に発生する原野火災を利用することを学び、調理を覚えた。肉や植物は、胃酸によって消化管の中だけで分解されるのではなく、火にかけた鍋の中でも分解されるようになった。結果として、多くの世代を経る間に、私たちの内臓は調理なくしては生きられないように変化したが、その分、エネルギーの大きな割合を脳に向けられるようになったのだ。

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脳が大きくなった「原因」は同時に「結果」でもある

まとめよう。私たちと道具との関係は、「斧」でも、「火」の管理でも、「シェルター」や「衣類」の使用でも、古代からあって、私たちをいまの姿にした原動力である。こうしたスキルの獲得には何十万年もの時間がかかった。

食べ物を焼くことに気づき、焼いたものを食べることに適応した初期の人類は、ほかの動物にはない大きな強みを持った。消化に必要なエネルギーを減らし、脳に使えるエネルギーを増やしたことで脳が大きく発達すれば、より多くの仲間のホミニンと社会的関係が築けるようになり、それがまた脳を大きくする原因にもなった。

この循環は集団的知性や、言語・記憶・学習の獲得とリンクしていた。人間の特性となったものは、バラバラにではなく、すべて一緒に発達したのだ。外部の力を使う身体能力と、道具づくりや狩り、調理などの共同作業は、「脳が大きくなった原因」であると同時に「脳が大きくなった結果」でもあった。そして、両方が発展するためには、膨大な時間の経過が必要だったのである。

(翻訳:神月謙一)

 

■ ナイジェル・シャドボルト(Nigel Shadbolt)
オックスフォード大学コンピューターサイエンス学教授、同大学ジーザス・カレッジ学寮長。1956年ロンドン生まれ。ティム・バーナーズ=リーと共同で「WWW(ワールドワイドウェブ)」の仕組みを開発。英国を代表するコンピューター科学者で、最先端の人工知能・ウェブサイエンス研究者の一人。王立協会、王立工学アカデミーならびに英国コンピューター協会にてフェローを務めるほか、英国コンピューター協会では会長も務めた。2013年に科学と工学への貢献により「ナイト」の称号を贈られる。

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ナイジェル・シャドボルト(Nigel Shadbolt)