もし家族が認知症になったら〜忘れてはいけない3つのこと

早期診断・早期治療も大事だが・・・

どうやら、気管切開のこともそうですが、自分の意見も言えずに治療方針が決まっていきそうな、その状況自体もとても怖かったようです。

そんな風に本人の思いを聞いていたら、救える命も救えないのではないか? そう思われた方もいらっしゃるかもしれません。それをすれば救命できるかもしれない、でも本人は本心からそれを望んでいない・・・こんな時、医療従事者はどうすればいいのでしょうか。

間違いなく様々な意見があるでしょう。ただ、正解があるわけではないのです。仮に医療的な正解はあったとしても、患者さんの人生の正解は千差万別。患者さん一人一人の思いが正解なのかもしれません。

結局この時は、この患者さんの思いをできるだけ尊重して、気管切開をしないでギリギリまで様子を見ようということになりました。そうしたら患者さん、ケロッと良くなって、その後、口から食事もできるくらい回復されています。

この場合は結果オーライで良かったのですが、運が悪ければそのまま窒息して亡くなったかもしれません。だからと言って「本人の思い」に耳を傾けなくていい、ということではないと思います。

個人的には、自分の命の顛末を自分で決定したいと思う人の意見は尊重されてもいいのではないか、そんな患者さんの意見も含めて、みんなでしっかりと「悩む」ことが大事なのではないか、そう思います。

「医療的な正解を行うこと」は本人のためになるのか

ご高齢の方が多くかかる疾患、脳梗塞、認知症、心筋梗塞、がん・・・。どれもこれも、盲腸の手術のように1週間で治るような病気ではありません。治療法はないけれど、管を入れてとりあえず命をつなぐだけの対処法はあるとか、治療法は一応あるけれど、やはり徐々に進行していくとか。ご高齢の方々は、治らない病気を一つ一つ得ながら、緩やかに坂を降りていかれるのです。

確かに現代の医療の恩恵は絶大で、我々は大いに感謝しなければいけません。ですが、その方法論、「盲腸→有無を言わさず手術!」というような、医学的正解=完治=正義という図式を高齢者の医療に当てはめてしまうと、つまり治らない病気を治そう!治そう!と最期まで頑張ってしまうと、最終的にはみんな管だらけで寝たきり、ということにもなりかねません。

もし、医療的正解=完治=正義という図式が成り立たないのであれば、「私はノドを開けて管を入れて長生きするよりも、たとえ命が短くなってもいいから最期までおしゃべりをしたい」とか、「俺は、おなかの胃ろうの管からでなく、鼻のチューブからでなく、最期まで口から食べたい」という方がいても、それはそれで尊重されるべきだと思うのです。

参考記事

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森田 洋之

1971年横浜生まれ、一橋大学経済学部卒後、宮崎医科大学医学部へ。内科研修終了後、財政破綻後の北海道夕張市・夕張市立診療所に勤務。同診療所所長を経て妻の実家の九州へ戻る。
2011年、東京大学大学院H-PAC千葉・夕張グループにて夕張市の医療環境変化について研究。2014年、TEDxKagoshima出演。同年、研究論文『夕張市の一人あたり高齢者診療費減少に対する要因分析』(社会保険旬報)発表。2015年、『破綻からの奇蹟〜いま夕張市民から学ぶこと〜』を出版(日本医学ジャーナリスト協会優秀賞受賞)
現在、南日本ヘルスリサーチラボ代表、日本内科学会認定内科医、日本プライマリ・ケア連合学会指導医、鹿児島県参与(地方創生担当)。森田洋之のブログは「note」をご覧ください。