カレーに入れるお肉は豚肉か牛肉か、餅の形は四角か丸かなど、いろんな場面で対比するように紹介される関東と関西。秋なら月見団子の形が丸いのか、里芋型なのかで比べられます。

関東と関西には様々な違いが見られますが、実際にはどの辺りが境界線と言えるのでしょうか?

分け方によっては三重県が関西に含まれないケースもありますし、厳密にどこからが関東で、どこからが関西なのかイマイチはっきりしないように感じられます。

そこで今回は、関東と関西の境界線について考察!歴史を振り返ったり場面ごとの区分の違いを紹介したりするので、ぜひ最後まで読んでみてください。

「関東」の起源は飛鳥時代ごろまで遡る

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「関東」という区分の起源は、飛鳥時代ごろまで遡ると考えられます。もともとは、「関所の東側」という意味で使われていたようです。

当時は奈良盆地にあった都を守るため、都に至る道には関所が設けられていました。その中でも「三関」と呼ばれる3つの関所は特に重要な役割を果たしており、この3つの関所より東の地域を「関東」と呼ぶようになります。

「三関」は以下の3カ所に設置されていました。

  • 愛発関(あらちせき・北陸道):現在の福井県
  • 不破関(ふわせき・東山道):現在の岐阜県
  • 鈴鹿関(すずかせき・東海道):現在の三重県

現在の東海・北陸地方より東側の地域すべてが「関東」だったため、かなり広い範囲を指す言葉であったことが伺えますね。

「関西」の起源は平安時代中期ごろ

「関西」という言葉を使うようになったのは、平安時代中期ごろのことです。当時「三関」のうち福井県にあった愛発関が廃止され、代わりに逢坂関(おうさかのせき)が設置されました。

逢坂関が設置されたのは、現在の滋賀県大津市のあたり。「関西」は新しい「三関」をもとに、「関東」と区別するために使われ始めたと考えられます。

「関東」「関西」をよく使うようになったのは鎌倉時代

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源頼朝が鎌倉幕府を開くと、「関東」という言葉が文書などに頻繁に登場するようになります。

どうやら鎌倉幕府の直轄領を「関東御領」、将軍家が支配する土地を「関東御分国」などと、「関東」を鎌倉幕府の代名詞のように使ったのがきっかけのようです。

同時期には幕府が拠点を置く「関東」と対比するように、朝廷がある地域を「関西」と呼ぶようにもなりました。

ただし「関西」の範囲は厳密に定められておらず、平安時代のころと同様に三関以西を指すことも、朝廷の支配域が及んでいた尾張(現在の愛知県西部)の辺りまでを指すこともありました。