ヤマト運輸とアマゾンが、4割超の値上げで合意したようです。これをインフレの号砲だと受け止めている久留米大学の塚崎教授が、解説します。

ヤマト運輸が値上げ攻勢。ライバルも追随

今年5月、ヤマト運輸は個人向け運賃の値上げを発表しました。同時に、アマゾン等の大口取引先にも値上げを要請する、と発表しました。労働力不足への対応として、値上げして取扱量を減らし、労働者の負担を減らすとともに、値上げによる利益を省力化投資(宅配ロッカー設置等々)に用いるようです。当然、アルバイトの時給を引き上げて、多くのアルバイトを確保することも考えているでしょう。

従来であれば、ライバルが値上げをせずにヤマトのシェアを奪いにきたのでしょうが、今回はライバルも値上げをしました。ライバルも同様に苦しいので、ヤマトの値上げをシェア拡大の好機というより追随値上げの好機と捉えたのでしょう。ヤマトとしては、「思ったほど荷物が減らず、従業員不足が解消しなかった」ということかも知れませんが、さらなる値上げの余地ができたと考えれば、大いに歓迎されるべきことでしょう。

これは、極めて大きなメッセージでした。「値上げをしてもライバルに客を奪われない」ということが全国の宅配事業者に知れ渡ったのです。宅配事業者だけではありません。労働力不足に悩む全てのサービス事業者が、「自分たちの業界でも、同じことが起きるかも知れない」と考えるようになったはずです。

そして昨日、なんと巨人アマゾンまでが、4割超の値上げを飲んだ、と報道されました。「巨人アマゾンとの取引は、誰もが取り扱いたいので、アマゾンが宅配事業者を競わせれば、いくらでも値引きが引き出せる」と考える人もいたでしょうが、そうではなかったのです。

これは素晴らしいニュースです。ようやく日本がインフレ時代に突入した、という号砲となるでしょう。

ディスインフレが永続すると考えるのは危険

バブル崩壊後、日本経済は長期にわたるデフレ(あるいはディスインフレ)を経験しました。アベノミクスによる景気回復が4年以上続いているのに、日銀が必死に物価を上げようとしているのに、いまだに物価が上がらないのを見て、日本には永遠にインフレはこないのだと考える人が増えているようです。物価連動国債の相場から逆算される市場参加者の「今後10年間のインフレ予想」も、1%を下回ったままです。

しかし、「これまで物価が上がらなかったから、今後も上がらないだろう」と考えるのは、危険なことです。氷に熱を加えても温度は上がりませんが、氷が溶け終わると温度が上がり始めます。それと似たようなことが、物価に関しても起き得るのです。氷と水ほど明確な転換点ではありませんが。

景気回復でも物価はすぐには上がらない(初心者向け解説)

景気が回復を始めても、物価はすぐには上がりません。不況期には、企業が余剰人員を抱えていますから、彼らを働かせることで企業は容易に生産を増やせます。この段階では、一人当たりの賃金は上昇せずに生産量が増えるので、「単位労働コスト(生産物1個あたりの人件費)」は下がります。もちろん、コストの低下は売値の低下には繋がらず、企業利益の増大となりますが、この分は後日単位労働コストが上昇した際に値上げを思いとどまらせるバッファー(緩衝材、クッション)となります。

企業が生産をさらに増やすと、残業が増え、さらには新規採用を始めます。しかし、この段階では失業者が大勢いますから、新規採用者の時給は安いはずです。加えて、不況期には非正規労働者を解雇して、解雇できない正社員だけで運営していた企業にとっては、非正規労働者を雇い始めると一人当たり人件費がむしろ低下する場合もあるでしょう。

日本経済全体としても、景気回復初期には非正規労働者比率が上昇したことで、「労働者1人当たりの平均賃金が景気回復にもかかわらず低下した」という現象も起きていました。これを見てアベノミクスの失敗だといった的外れな批判も聞かれましたが(笑)。

企業がさらに採用を増やすと、労働力不足で賃金が上がり始めますが、最初は非正規労働者だけで、正社員の給料は上がりません。非正規労働者は時給を上げないと人数が集まりませんが、正社員は賃上げをしなくても辞めていくことは考えにくいからです。

さらに景気が回復して、ようやく正社員の給料も上がっていきます。採用難から新入社員の初任給が上がり、中小企業が社員の引き抜きを恐れて賃上げを強いられ、最後に大企業の賃金が上がる、という長いプロセスを経て、ですが。このあたりの事情については、拙稿『労働力不足なのに、サラリーマンの給料は上がらないのか』をご参照ください。

ヤマトの動きは、他業界にも広がると期待

ヤマト運輸の勇気ある値上げにより、人々が理解したことは、同業他社も、そしておそらく他業種のサービス事業者も、皆が労働力不足に悩んでいるので、ライバルのシェアを奪いにいく余裕はなく、あわよくば値上げをして賃上げをして労働力を確保したいと考えている、ということです。つまり、値上げをしてもライバルに顧客を奪われることがないので、「気楽に」値上げをすることができる、ということになります。

しかも、ヤマトが値上げに成功して、それを原資に賃上げにより労働力を確保しようとすれば、他社はヤマトに労働力を引き抜かれないように賃上げを迫られます。これが非正規労働者の時給を一層引き上げ、他社も人件費の上昇を価格に転嫁せざるを得なくなると期待されます。

もしかすると、働き方改革との相乗効果で、「残業を減らさないと社員が集まらないから、残業を1割減らして社員数を1割増やそう」という企業が増えることで、いっそう労働力不足が深刻化し、さらに賃金が上昇していくかもしれません。

人件費の価格への転嫁のみならず、「そもそも労働力不足で仕事が受けられない」という企業が増えてくれば、買い手の方から「値上げしてくれて結構。その代わり、仕事を断らないでほしい」と言ってくるかも知れません。

筆者としては、こうした動きが広まり、労働者が報われることを期待しています。消費者としては、物価上昇は嬉しくありませんが、値上げによってサービス業の労働者が正当な対価を得られるようになるのであれば、喜んで物価上昇を受け入れたいと思います。

さて、見てきたように、氷はほとんど融けています。それが今後の水温に、いかなる変化を及ぼすのか、予測は容易ではありませんが、一つだけ確かな事は、今までの延長線上で物価を予想するのは危険だ、ということです。今後の推移を注目しましょう。

なお、本稿は、拙著『経済暴論』の内容の一部をご紹介したものです。厳密性よりも理解しやすさを重視しているため、細部が事実と異なる可能性があります。ご了承ください。

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塚崎 公義