「欲張りは悪いことです」と小学校の道徳で習った人も多いでしょうが、経済の先生は、そうは教えません。人々が欲張りな方が、経済はうまく行くのです。今回は、人々が欲張りでなかったら何が起きるのか、考えてみましょう

コンビニにパンがない?

筆者が空腹時にコンビニでパンを買うとします。パンが棚に並んでいるのは、コンビニが欲張りだからです。もしもコンビニが欲張りでなかったら、「パンが売り切れている。でも、補充するのは面倒だから、放置しておこう」ということになり、筆者はパンを買うことができないでしょう。

それ以前に、コンビニの社長が「ここにコンビニを建てれば儲かるだろう。でも、面倒だから、やめておこう」と考えたら、筆者の職場の近くにコンビニが建つことはなかったかも知れません。コンビニの社長が欲張りだから、筆者はコンビニが使えるようになっているのです。

パンを作る会社が欲張りでなかったらどうなるか。パンの材料の小麦粉を作る会社が欲張りでなかったらどうなるか。小麦を育てる農家が欲張りでなかったらどうなるか。そう考えると、皆が欲張りであるからこそ、筆者が空腹時にパンにありつけるのだ、ということがわかります。欲張りって素晴らしい!

飢饉時にコメを買い占める強欲商人も、役に立つ

「江戸時代の飢饉の時、強欲商人がコメを買い占めたので、庶民が苦しんだ」と聞いたことがありますか? それは表面的には正しいですが、本質的には間違えています。

ある年、コメが不作で例年の半分しか獲れなかったとします。強欲商人がコメを買い占めないと、コメの値段は上がりませんから、庶民は例年通りにコメを食べます。半年経った時点で、コメが底をつき、残りの半年間で多くの庶民が飢え死にするでしょう。

一方で、不作が予想された時点で強欲商人がコメを買い占めると、コメの値段が高騰しますから、庶民は強欲商人を恨みながら、例年の半分のコメで我慢しながら暮らすでしょう。その結果、庶民は身体も財布もやせ細りながら、何とか次の収穫期まで生き延びることができるのです。

ここで重要なことは、強欲商人がいてもいなくても、庶民が食べるコメの量は同じだ、ということです。強欲商人の胃袋は巨大ではありませんから、買い占めたコメを食べてしまうわけではありませんから(笑)。また、ちょうど次の収穫期に在庫のコメが売り切れるように強欲商人は価格を調整します。

コメの値段を安くしすぎると、儲けのチャンスを逃しますから、安くしすぎることはありません。仮に安くしすぎると、庶民が多くのコメを食べるので、収穫前に飢えてしまいますが、そうはならないので、安心なのです。

一方で、コメの値段を高くしすぎることもありません。値段が高すぎると、次の収穫期に売れ残ったコメが暴落するので、その前に買い占めたコメを売り切る必要があるからです。

欲張りであることを否定して失敗した共産主義

人々が欲張りであることを否定し、「皆が平等な国を作ろう」としたのが、共産主義です。しかし、成功しませんでした。「欲張りはダメだ」と言われても、人々は欲張りなのです(笑)。それを知りながら、見て見ぬ振りをしても、やはり上手くいかないのです。

「平等な国」というと、理想的な国のように思えますが、やってみると、そうはなりませんでした。「真面目に働いた人もサボった人も給料は同じ」なら、真面目に働く人はいないのです。学生だって、「勉強してもしなくても、同じ成績だ」と言われたら、勉強しなくなりますから。

したがって、たしかに平等にはなったのですが、「皆が平等に貧しい国」になってしまったのです。

ここからは、余談です。誤りに気付いた共産国の政府は、「真面目に働いた者には褒美を出す」ことにしました。しかし、「真面目に働いた」か否かを判断するのは容易なことではありません。サボっていた人が「私は能力がないから、真面目に働いたのに、これだけしか作れなかった」と自己申告した時、どう評価するのか難しいのです。

そこで、「100キログラム以上のパンを作ったパン屋には褒美を出す」ということにしました。そうなると、パン屋たちは「最も手間がかからないパンの作り方」を研究したため、不味いパンばかりがパン屋の店先に並ぶことになり、国民の食生活は豊かにはならなかったのです。

やはり、資本主義は素晴らしいです。「美味しいパンをたくさん作れば、皆が買ってくれるから金持ちになれる」と考えて、パン屋たちが美味しいパンをたくさん作るようになるからです。

なお、本稿は、拙著『経済暴論』の内容の一部をご紹介したものです。

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本稿は、厳密性よりも理解しやすさを重視しているため、細部が事実と異なる可能性があります。ご了承下さい。

塚崎 公義