出光興産が注目を集めた2016年

昨年(2016年)、出光興産(5019)が関係する大きな話題が2つありました。

1つ目の話題は、百田尚樹氏の小説で、創業者の出光佐三氏をモデルにした『海賊と呼ばれた男』が岡田准一さんを主演として映画化され、全国公開されたことです。

小説では脚色がされていますが、出光興産は、戦後、海外拠点を一気に失うという存亡の危機の際、社員を1人も首にすることなく乗り切りました。その後、自前のタンカー「日章丸」を航行させて、英国に封鎖されていたペルシャ湾を突破し、イランからの原油の輸入に成功するという破天荒なことをやり遂げました。

社員を首にすることなく、まるで家族のように大切にしたということから、出光興産の「大家族主義」の経営は当時から有名ではありました。しかし、今回映画化されたことで、「出光興産というのはそういう企業だったのか」と初めて認識した人も多かったのではないでしょうか。

2つ目の話題は、現在の経営陣が進めようとする昭和シェル石油(5002)との合併の計画に創業家が反対し、2017年4月に予定されていた合併が延期となったことです。反対している理由や背景については、いろいろな見方が取りざたされていますが、少なくとも、この対立は現在も続いていることだけは確かです。

「大家族主義」経営で有名だった企業での、経営陣と創業家との間で起きたお家騒動。これらの相容れなさそうな話が、同じ企業で似たようなタイミングで着目を集めることは、何とも不思議な感じがしてなりません。

創業者・出光佐三氏の寄進により整備された宗像大社

そのような折、4月に福岡方面に出張する機会があったので、空いた時間を使い、出光佐三氏が生まれ育った福岡県宗像市を訪れてみました。

福岡県宗像市といえば、何と言っても、日本全国の宗像(むなかた)神社や厳島神社の総本山である宗像大社が有名です。古代より朝鮮半島や中国大陸と行き来する海上路の要所に位置していることもあり、海上交通、交通安全の神として信仰を集めています。交通安全のお守りは、宗像神社が発祥の地とも言われています。

出光興産の前身である出光商会は戦前、東銀座の歌舞伎座の横に社屋を構えていました。東京大空襲の時、一面が焼け野原となった時、出光商会の社屋は奇跡的に残ったそうです。

幼少より信仰していた宗像大社のご加護と感じた出光佐三氏は、戦前より行っていた、荒廃していた宗像大社の復興を目指す活動を積極化させ、後年、多額の寄進によって、宗像大社の境内がきれいに整備されたとのことです。

写真1:宗像大社拝殿

その宗像大社にお参りしましたが、境内のどこにも、出光佐三氏の面影となるものはありませんでした。あまりに畏れ多くて本人が強く辞退したため、と言われており、宗像大社への信心の深さがうかがえます。

なお、宗像大社は「神宿る島・宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成遺産として、世界遺産の推薦候補になっており、今年の7月の審査で世界遺産に登録されるかもしれません。そうなれば、出光佐三氏の功績に再度注目が集まる可能性もありそうです。

出光佐三氏が生まれ育った赤間宿

宗像大社からバスと電車を乗り継ぎ、赤間宿と呼ばれる地域に移動しました。赤間宿は唐津街道の宿場町であり、出光佐三氏の生家は赤間宿にある藍問屋でした。街道に面した家屋は現在、国有形文化財として保存されています(以前は内部も見学できたそうですが、今は外観を眺めるだけです)。

写真2:唐津街道と赤間宿(右側の電柱の向こう側の建物が出光佐三氏の生家)

写真3:出光佐三氏の生家

写真4:出光佐三展示室

生家のすぐ近くには、使わなくなった民家を改装して、地元のボランティアスタッフにより運営されている「出光佐三展示室」があり、出光佐三氏の生涯などを映像を交えて紹介していました。

出光佐三氏は生まれ育った赤間宿をこよなく愛していて、地元のために何かと目をかけていたそうです。展示室のボランティアスタッフの方にお話をうかがうと、学校の遠足の時などには、出光佐三氏から東京のお菓子の差し入れがあったとか、いろいろ良くしてもらった記憶があるそうです。

子どもの頃にはまだ生きていた優しいおじいちゃんとして、出光佐三氏は、今でも地元の人たちに慕われているようです。

出光佐三氏ゆかりのお寺と墓所

そのボランティアスタッフの1人に、出光佐三氏ゆかりの地を2カ所教えていただいたので、行ってみることにしました。

その1つは、同じ赤間宿の街道沿いにある、出光家の菩提寺でもある法然寺です。お寺の山門は、出光家一族が寄進したものだそうです。畏れ多くて痕跡を残さなかった宗像大社とは異なり、他の一族の名前とともに、出光佐三氏の名前もしっかり刻まれていました。

写真5:出光家の菩提寺の法然寺の山門 (佐三氏から見て、雄平氏は兄、弘氏=新出光初代社長、泰亮氏=出光興産顧問、計助氏=出光興産第2代社長は弟)

もう1つはお墓で、街道からは少し離れた、赤間宿を見渡せるような高台にありました。行ってみると、出光佐三氏個人のお墓というよりは、出光家一族代々の墓というつくりになっており、家族、一族に囲まれているような雰囲気が伝わってきました。

写真6:出光佐三氏の墓所

もし出光佐三氏が生きていたら、昭和シェル石油との合併に反対したでしょうか

地元を愛し、地元の人たちに慕われ、一族に囲まれて眠る様子を見るに、「大家族主義」の経営方針を打ち立てた出光佐三氏の人柄がしのばれます。それだからこそ、既に実際の経営から離れて久しい創業家が経営陣と対立している現在の構図には、違和感を覚えずにはいられません。

もし、出光佐三氏が現在も生きていたら、昭和シェル石油との合併に反対したでしょうか。個人的には、「大家族主義」で取り込んでしまうのではないかと予想するのですが、そもそも「大家族主義」の経営方針を今の経営環境下で維持できているのだろうか、また、上場してまで創業家が経営から離れるような距離感をとっただろうか、など、答えが出るわけではないですが、帰りの電車の中で、いろいろ想いを巡らせました。

藤野 敬太