ただ、丸川大臣も発言のその先を詰める気は全くないと思います。その一方で、この6月から厚労省がコロナ病床使用率の算出基準を改定しました。分母がコロナ確保病床であることは変わりませんが、分子が以前は一般病床入院患者や入院予定者もカウントしていたのですが、これを止めて確保病床への入院数のみに限定。

算出基準改定の妥当性はよくわかりませんが、結果は概ね病床使用率が下がると言われています。時期が時期だけに、どうしても邪推してしまいますよね。

「なぜ民間が自粛して五輪だけ特別なのか」という意見もあります。しかし、五輪推進の人たちにとって、そもそも五輪は特別なものです。議論がかみ合うワケがないのかもしれません。

五輪はクサ味が強すぎて

では、五輪の本質とはなにか。月並みですが、世界最大の夢のスポーツの祭典。そして、ビッグマネーが動く巨大なイベントといったところでしょうか。日本の場合、半世紀前の東京五輪が高度成長の契機になったという事情もあります。

自分が五輪ギライの理由のひとつは、ナショナリズムの問題です。いまのアスリートや観客が、“国威発揚"を第一義に五輪を考えているとは思えませんが、五輪が盛り上がっていく過程で、ナショナリズムがどうしてもオーバーラップしてきます。

エンタメやアート、スポーツ観戦において、ある種の“クサ味"が必要なことは理解していますが、五輪が規模壮大であるだけに、個人的にはこの“クサ味"が絶望的に強すぎでして。

五輪憲章では「五輪は選手間の競争であり、国家間の競争ではない(第1章 6-1)」と書かれているとか。このへんの嘘くささも“クサ味"を強めていますね。

進歩的な五輪改革論者の言うこともサッパリ理解できません。五輪にもっと今日的なテーマを付与し、適切にダウンサイジングして、商業主義とナショナリズムを排除して・・・そこまでやるなら、もう五輪という名称も要らない気がするのですが。