10月20日から放送が始まったドラマ『グランメゾン東京』の初回視聴率は12.4%(ビデオリサーチ調べ)。好調なすべり出しに加え、主演の木村拓哉に賛辞が集まっています。
『グランメゾン東京』の放送時間には「やっぱ木村拓哉は違う」、「やっぱキムタクって最強」、「くやしいけどキムタクかっこいいな」という声がSNSで見られました。その一方、いつの頃からか恒例になった「キムタクは何を演じてもキムタク」という声も散見されます。
「キムタクは何を演じてもキムタク」とはいつ頃から言われていて、それは本当なのでしょうか。はたして「キムタク」とは何なのでしょうか。これを考えてみたいと思います。
「木村拓哉」というタレントの始まり
筆者が木村拓哉という人物をテレビの中に初めて見たのは1987年のことでした。当時猛烈と言っていい人気を博したアイドルグループ光GENJIのバックダンサーとして登場した「スケートボーイズ」。木村はその1人だったのです。
光GENJIはローラースケートをはいて歌って踊るグループでした。そのバックでスケートボードに乗っていたのがスケートボーイズです。光GENJIの路線を受け継ぐかたちで、十数人からなるスケートボーイズから選抜された6人がSMAPとして世に出ることになります。
「SMAP」とは「Skate Music Assemble People」の頭文字を取ったグループ名でしたが、CDデビュー以降スケートボードに乗ることはなくなったので、「Sports Music Assemble People」に改められました。
SMAP結成以降、「木村拓哉」という人は一般に認知されるようになります。SMAPとしての活動は1988年からですが、『Can't Stop!! -LOVING-』でCDデビューするのは1991年。満を持してのデビューでしたが、頃は既にアイドル冬の時代。爆発的な人気にはすぐにはつながりませんでした。
「キムタク」と呼ばれるようになった頃
1980年代までは「アイドルグループはバラ売りするようになったら解散間近」というようなことがまことしやかに言われていました。グループのメンバーがそれぞれ別の番組に出演することは稀れなことだったのです。SMAPはその慣例を破って、ドラマやバラエティ番組に1人1人が積極的に出演するようになった先駆者と言えます。
木村拓哉も早い時期から単身でドラマに出演していました。最初のうちは単発ドラマや連作のうちの1話に登場するかたちでしたが、そのうちの『世にも奇妙な物語』(第3シリーズ/1992年)の『言葉のない部屋』が一般の注目を集めました。
主人公でありながら名前がない役でしたが、田舎から上京したものの都会に馴染めず孤立していく青年の不安や寂しさを訴えかけてくる演技は、見る者に強い印象を残しました。本放送を見ていた筆者も、放送から27年が経つというのにまだ忘れていません。
同年、初めての連続ドラマに出演し、さらにいくつかドラマをこなした後、翌年出演した『あすなろ白書』の取手治役で「木村拓哉」の名は広く知られるようになります。このときは「木村拓哉」として名が広まりました。
「キムタク」と呼ばれるようになるのはこの2年後の1994年のドラマ『若者のすべて』が放送された頃です。『若者のすべて』は萩原聖人とのW主演。連続ドラマでの単独主演を果たすまでにはさらに2年待つ必要があります。