木村拓哉の連続ドラマ単独初主演は1996年放送の『ロングバケーション』です。単独初主演であると同時に月9枠での初出演かつ初主演でもありました。木村はこの頃既に「キムタク」と呼ばれていましたが、「キムタクは何を演じてもキムタク」というようなことはまだ言われていませんでした。
そのように言われるようになったのは2000年代に入ってから、いわゆる「キムタク職業ドラマ」の『HERO』や『GOOD LUCK!!』などが放送されたあたりからではなかったでしょうか。誰が何を理由にこれを言い出したのかは不明ですが、おそらくはインターネット上での発言だったのでしょう。あっという間に拡散されて、多くの人が使う文言となりました。
しかし、本当に「キムタクは何を演じてもキムタク」なのでしょうか。これを唱えている人は彼が演じているすべての役を自らの目で見て比較した上で言うのでしょうか。流行語のように使い勝手のいい言葉として言ってはいないでしょうか。
もしも本当に「キムタクは何を演じてもキムタク」なのであれば、木村の代表作とされる『ロングバケーション』の瀬名秀俊はキムタクと言えるでしょう。『HERO』の久利生公平もキムタクと言えるでしょう。『CHANGE』の朝倉啓太も、『安堂ロイド~A.I. knows LOVE?~』の安堂ロイドことARX II-13もそうです。
それならば、瀬名秀俊は朝倉啓太である、あるいはARX II-13は久利生公平であると言えることになりますが、はたしてそうなのでしょうか。何を演じても同じであるなら、人物だけをそのまま入れ替えてみてもドラマは成り立つはずです。
屁理屈のように思えるかもしれませんが、一度入れ替えて想像してみてください。朝倉啓太が『ロングバケーション』の世界で葉山南と同居している様子を。ARX II-13が『HERO』の世界で検事を務めている姿を。
「何ら違和感がない」のであれば、「何を演じても同じ」ということにもなりましょう。しかし、わずかにでも「何か変だぞ」と感じる部分があるならば、それはその部分において演じ分けができているということではないでしょうか。
きちんとドラマを見ていたみなさんは上記に述べた「入れ替え」をしてみて違和感を覚えたことと思います。木村拓哉という俳優は、それだけそれぞれの役をしっかりと演じていたからです。
『安堂ロイド~A.I. knows LOVE?~』に見る木村拓哉の演技の例
木村拓哉は髪型さえどの役も同じにはしないという姿勢で臨む俳優です。演じるに当たっては取り組み方を変えているのでまったく同じにはなり得ません。たとえば『安堂ロイド~A.I. knows LOVE?~』では天才物理学者・沫嶋黎士と彼にそっくりなアンドロイドARX II-13を演じていますが、沫嶋とARX II-13は対照的とも言えるキャラクターでした。
ARX II-13はアンドロイドであるため、人間とは異なった挙動をします。この「人間とは異なる」部分を表現するため、木村は「まばたきを一切しない」、「倒れるときに真っ直ぐ横倒しになる(受け身を取らない)」など、「動かない」という動きを芝居に取り入れていました。
これは登場人物のセリフやナレーションで補足されることがなく、視聴者が自身で気づかなければならない部分でしたが、目で見てわかりやすい部分であったので気づいた人も多かったでしょう。
他方、沫嶋は天才ながら性格はおとなしく、対人恐怖を持ち合わせた人物でした。恋人である安堂麻陽とのキスシーンでは、相手が愛する人であっても緊張して身体が硬直するさまが開いた指先まで表現されていました。
しかし麻陽との生活が見られる別のシーンでは、それでも恋人の前では安心して過ごす、リラックスした沫嶋の表情なども魅力的に見られました。いくぶんトゲトゲして時折舌打ちなどもするARX II-13との差異が明らかな部分です。
よく見なければわからない部分にも注意は払われていて、それが最もよく観察できるのは沫嶋が射殺されるシーンです。そのシーンでは弾丸が複数、正面から撃ち込まれますが、その1弾ずつに沫嶋の身体は衝撃を受けて揺さぶられ、表情には驚愕、恐怖、苦痛が続けざまに現れます。さらに表情が変わるごとにそこには死が混じり出します。
あらぬ方向への視線の揺れ、不自然に歪む顔貌、口蓋から飛び出す舌。生きている者が表すことがない表情が現れるのです。弾丸が数発発射され、すべて着弾するまでの数秒の間に、沫嶋を演じる木村はこれらを身体を大きく使って表していました。しかし、わずかな時間の出来事であるために、視聴者は見逃しがちです。
しかしながら、サブリミナル的とでも言うのでしょうか、このひとつひとつの挙動を視認していないとしても、思いがけない死が訪れたのだという印象を視聴者は受けることができたでしょう。このシーンを見ていながらこの印象を得られなかったのだとしたら、それは何かに目の前をふさがれていたのかもしれません。