上手に母乳を飲ませてあげられなかった時、朝も夜も関係なく泣き続けられ、寝不足がたたって息子にイライラしてしまった時、家事に手が回らなくなり洗濯も掃除もサボった時、仕事のために託児所に預け、泣く息子に後ろ髪を引かれながら職場に向かった時…。

その時々の状況や、将来を見据えたり夫と話し合ったりして、最善の方法を選択し続けているつもりですが、それでも「この子にかわいそうなことをしていない? 大丈夫?」という考えは常にぐるぐると頭を巡ってしまいます。ネガティブになりすぎかもしれませんが、子を思う親であれば当然とも言えるでしょう。

親自身が日々不安に駆られ、心が揺れ動きながら育児に奮闘している毎日。そんな時に目に見える虐待や育児放棄でもない限り、他人にあれこれ言われるのは迷惑に感じるばかりか、いっそう落ち込んだりストレスに感じたりすることを理解してもらいたいと感じます。

「かわいそう」という目線を向けられることが一番かわいそう

こんな親で子どもがかわいそう、障がい者はかわいそう、シングルマザーはかわいそう、同性愛者はかわいそう…。こうした「かわいそう」という同情の目線は、人を無意識のうちに差別しているとも言えないでしょうか。

他人の「かわいそう」という決め付けが、子どもが成長していく中で差別や偏見を助長しかねないことに気付くことが必要でしょう。「かわいそう」という目線を向けられることが、何よりもかわいそうなことなのです。

親がどんな職業であれ、どんな家庭環境であれ、その家庭の育児方針は他人が口出しできるものではなく、また愛情を受けながら子どもがしっかりと育っていけば批判される筋合いもないものです。親がAV関連の仕事をしている子どもと聞いて、自分とは異なる家庭環境に驚くことはあれど、「子どもがかわいそう」とレッテルを貼るのは正しいことではないのではないでしょうか。

秋山 悠紀