仕事のコミュニケーションには個人の好みもあり、電話をよく使う人もいればチャットを使う人もいますが、多くの人はメールが基本なのではないでしょうか。ただ、メールの書き方で仕事相手から好かれる人もいれば、深刻なトラブルに見舞われる人もいます。

 書き方ひとつ間違えると、文字通り「命取り」になるという意味では、400年以上前の戦国時代の武将たちの手紙のやり取りは、今と比べてもずっとシビアでした。それだけに、現代のわれわれが彼らから学べる部分も数多くあります。

『心をつかむ文章は日本史に学べ』の著者で歴史家・作家の加来耕三氏は、「伊達政宗は戦国一の筆まめといっていい武将で、約1000通の直筆書状が残っています」と話します。文書の数でいえば、織田信長が約1450通、徳川家康が約3750通、豊臣秀吉にいたっては約7000通といわれており、約1000通の伊達政宗と比べてもかなり多いのですが、なぜ政宗は「戦国一の筆まめ」と言えるのか? 彼の文章術がどんなものであったのかも含め、同書をもとに加来氏に解説してもらいました。

政宗の執筆場所はトイレ!?

 確かに伊達政宗と比べると、信長・秀吉・家康の残した文書の数は段違いです。しかし、これらには公文書も入っています。このころの武家には「祐筆〈ゆうひつ〉」と呼ばれる秘書・事務作業担当者がいて、彼らに口述筆記や代筆させたものも数多く含まれていました。概要だけを話して、祐筆にまとめさせたものもあり、多くの場合、武将本人は署名や花押を入れるだけ、というケースが多かったのです。

 そのため、「直筆の書状」に限定すれば、信長・秀吉・家康であっても、それぞれ数十通程度しか現存していません。ところが伊達政宗の場合は、直筆の書状が1000通残っています。これは桁違いに多いといえるでしょう。

 政宗の執筆場所は、いわゆる「厠〈かわや〉」=トイレでした。現代の感覚なら、ギョッとするかもしれません。でも、ご安心ください。トイレといっても、現代の狭くて、用を足すだけの場所とは、根本的に違います。

 まず武将の使う「厠」は、広いのです。とくに奥行きが長い。常に生命を狙われている彼らにとって、用を足す時間は無防備で、危険なものでした。刺客に外から槍で突かれる恐れもあったでしょう。これは武田信玄のエピソードですが、彼はたとえ槍で突かれても、自分の体には届かないように配慮した長さ・広さで「厠」をつくっていました(6畳の畳敷きでした)。

 実際、政宗の厠も小さな部屋ほどの広さがあり、少なくとも四畳半ほどはあったようです。本棚も備え付けられていて、書物も置いてありました。文机もある。ですから、トイレ内で読書も書き物も、自由にできたのです。

 政宗は毎朝、「厠」に入ると2時間ぐらいは出てきませんでした。「厠」は一人で、じっくりと思索に耽ることができる空間でした。もちろん彼には、正式な書斎や仕事部屋がありましたが、そこには家臣たちの目があります。独り、考えに没頭することが難しかったのです。「厠」であれば、人の目を気にする必要はありません。

自分を磨くための手紙

 政宗は、「厠」で手紙を毎日のように書きました。彼は何度も推敲〈すいこう〉して、手紙の文面を考えます。「この表現はわかりにくいかもしれぬな」とか、「この説明部分をもっと前にもってきたほうがいいかもしれぬ」というように、相手によって手紙の内容を十分に吟味したのです。

 推敲作業は、対話に似ています。人と会話していると、最初はごちゃごちゃしていた頭の中が、クリアになっていく経験が、読者の皆さんにもあるかと思います。話すうちに段々と整理されて、「自分が言いたかったのは、こういう内容だったのだ」と気づかされます。

 手紙はこの作業を、一人で行えるわけです。文章を書くことは、自分の心と対話することでもあります。頭の中で考えていることを文章に表し、それを読んでみる。内容はわかりやすいか、これを読んで相手はどう思うかを、シミュレーションするのです。

 それにしても、こんな面倒な作業を、政宗はなぜ、天下泰平の江戸時代に入っても続けたのか。それは彼が、天下に対する野心を抱き続けていたからではないでしょうか。

 江戸時代になり、徳川幕藩体制が確立された後も、まだ政宗は天下取りを諦めていませんでした。事実、慶長18年(1613年)9月には、家臣の支倉常長〈はせくら・つねなが〉をヨーロッパに派遣し、彼の地の軍勢を引き連れてきて、幕府を倒すつもりだった、とか、娘婿の松平忠輝(家康の六男・越後高田藩主)をかついで、謀叛を起こそうとしたとか。その真偽はともかくとして、政宗が「天下取りの夢」を見続けていたと思われる痕跡は、いくつも残っています。「その日」のために、彼は自分を磨き続けたのです。

小姓に手紙で謝った真意とは?

 政宗の手紙も一通、紹介しましょう。次の文章は、政宗が小姓頭〈こしょうがしら〉に宛てた手紙の現代語訳です。

「先日、酒を飲んだ際、蟻坂善兵衛〈ありさか・ぜんべえ〉の弁解が気に障〈さわ〉って、折檻〈せっかん〉してしまった。
いかに若輩者であっても、小姓頭を務めている立場の人間の頭を、酒の席だとはいえ、脇差〈わきざし〉の鞘〈さや〉で叩いたことは、私の間違いである。
ついつい酒を飲むと、主従の関係を忘れてしまうのは仕方がない。
善兵衛の頭の傷が治ったら、再び働いてもらうので、出仕するように伝えてほしい」

 封建時代といえば、主君は絶対的な存在で、家臣は主君が理不尽な言動をしても、それに従うしかありませんでした。にもかかわらず政宗は、自分よりはるかに身分の低い者のことを気遣う手紙を書いています。

 彼は、「人を大事にしなければ、自分の身も危うい」ということを、戦国乱世を生き抜いて、熟知していました。主人だからといって、横暴なふるまいをしていれば、いつ寝首をかかれるかわかりません。「今は立場が上であっても、引っくり返ることはあり得る」というのが、下剋上の時代を生き抜いた政宗の見解でした。

 こうした背景もあり、政宗だけではなく、優れた戦国大名は皆「気配り」を欠かしませんでした。君主でありながら、小姓にすら素直に頭を下げる。直筆の手紙で、己れの非(あやまち)を詫びているわけです。普通は、「俺も酔っ払っていたから仕方ない。あいつが生意気ないい訳をするのが悪いんだ。文句があるか!」と、開き直る武将のほうが多かったでしょう。でも、政宗はここまでへりくだっています。

 政宗は、冷静に考えました。平時に不測の事態が起きた時、身を挺して自分を守ってくれるのは小姓たちです。彼らの信頼を得ることが、自分の生命を守る道だ、と悟っていたのです。だから、まず「酒席のこととはいえ、頭を殴ってしまった、これは私が悪い」と謝罪。その上で、「善兵衛の傷が治ったら、職務に復帰してくれ」とフォローもしました。この手紙をもらった当事者も嬉しかったでしょうし、他の小姓たちから見ても、自分たちを大事にしてくれる主〈あるじ〉だ、と再認識したはずです。政宗はこの手紙で、家臣たちの忠義心を高めることに成功した、といえるでしょう。

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不信感を抱く母に「お慕いしています」と書き続けた

 政宗は、実母から暗殺されそうになったという話があります。豊臣秀吉が北条氏政・氏直親子の小田原城を攻めた折、その遅参を責められ、慌てて小田原へ向かう前のこと。政宗の弟・小次郎を当主の座につけようと画策した母親から、政宗は毒を盛られた、という話が伝わっているのです。真偽はわかりませんが、その後、母と政宗は長い間、別々に暮らしていました。しかし、政宗は母親に対して、「お慕いしています。お会いしたい」と、何度も手紙を出し続けました。朝鮮出兵の陣中からも、手紙を送っています。

 本心から書いた部分もあったでしょうが、政宗は手紙を読んだ母親が、何をどう思うか、イメージして書いていたはずです。上記の小田原参陣の混乱の際、彼女が溺愛していた次男の小次郎を、政宗は殺〈あや〉めました。表面上は和解しましたが、恨みは根深い、と考えたほうがいいでしょう。音信不通のまま、実母を放置していれば、彼女がまた何をしでかすかわかりません。政宗は謀叛を企んでいる、などと幕府に密告されても迷惑です。

 そこで政宗は、折に触れて、「お慕いしています」と母に手紙を書き送り、贈り物をし続けました。そうすれば、母の政宗に対する憎しみも、やがては薄れていくはずです。そして、政宗が母親をいかに大切にしているかも、周囲にも伝わるでしょう。

 自分を大切にしてくれる政宗を憎んだり、損害を与えたりしようとすることは、さすがにこの母親にもできないはず、と政宗は先の先まで読んで手紙を書き続けたのです。実の母親に対して、そこまで用心しなければならなかった政宗は、不憫ではありますが、一面、生死と隣り合わせの緊張感の中を生き抜いた、戦国武将のしたたかさ、たくましさを感じる文章術ともいえるのではないでしょうか。

 

■ 加来 耕三(かく・こうぞう)
 歴史家・作家。1958年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業後、同大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師をつとめながら、独自の史観にもとづく著作活動を行っている。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇談会講師。主な著書に『日本史に学ぶ一流の気くばり』『歴史の失敗学』『紙幣の日本史』などのほか、テレビ・ラジオの番組の監修・出演も多数。

加来氏の著書:
心をつかむ文章は日本史に学べ

加来 耕三