新型コロナウイルスの流行は、株式市場にも影響を及ぼしました。株価は将来の利益を反映して形成されるため、コロナの収束の目処も立っていない現在では、世界主要各国とも1年先の利益予想もむずかしい状況です。

 この記事ではアナリストとして18年、ファンドマネジャーとして23年、アドバイザーとして17年以上、投資の道一筋に生きてきたスペシャリストである山下裕士氏の著書『伝説のファンドマネジャーが見た日本株式投資100年史』(クロスメディア・パブリッシング)をもとに、日本のバブル経済に関してあらためて考えてみます。

 ここでは特に「バブルが最終局面に向かうまで」を振り返り、その問題の原点がどこにあったのかを探ります(バブル崩壊後については来週に掲載予定)。国際情勢や世界経済は、今後も目まぐるしく変わるでしょう。的確な状況判断を下すためにも、過去を学ぶことによって、この国難を突破する糸口を見つけられるかも知れません。

業績とは無関係の株価上昇はこれまでも多々あった

 バブルといえば1980年代後半の「株バブル」、「土地バブル」のことを指しますが、経済の実体、企業の業績を無視した株価上昇はほかにもあります。岩戸景気(1958年7月~1961年12月)を背景にした「投信ブーム」。このときの主役は投信を買った個人投資家です。

「列島改造ブーム」に酔った1970年代前半は、大手商社を中心とする事業法人が土地投機、株式投資に走った背景があります。最初は資本自由化を控えた株式の持ち合いが始まりでしたが、金融緩和で得た資金で土地・株式への投資を活発化させていきました。

 80年代後半の株バブルや土地バブルのあとには、90年代後半から2000年代初頭の「ITバブル」がありました。ニューヨーク市場のITバブルを映して東京市場では、外国人投資家たちがIT関連銘柄を買いました。

バブル経済の立役者である「特金」と「ファントラ」とは?

 バブルを語る上で「特金」と「ファントラ」は外せません。

 「特金」とは特定金銭信託、「ファントラ」とはファンドトラストの略で、ともに信託銀行が顧客の資金を預かって株式や債券を利用して運用するサービスです。当時の低金利に加えて金余りの状況から、多くの資金が特金やファントラに流れ込んだことが、バブルの原因であるといわれています。

 特金とファントラで資産を運用する最大のメリットは「簿価分離」にあります。簿価分離とは、企業が特金やファントラで資金を運用するとき、その企業が独自に保有する銘柄と、特金やファントラで保有する有価証券を区分して簿価評価(資産の価値を、その資産を購入したときの価格で評価する方式)を行う方法のことです。

 たとえば、ある企業がA社の株式10万株を20年前に1株200円で取得していたとします。しかし、同じA社の株式を最近、追加で10万株、1株1000円で追加取得すれば、A社の1株当たり簿価は600円になります。A社株を信託形式で取得すれば、簿価通算(企業等の法人が有価証券投資の際に税務上、すでに保有している同じ銘柄の有価証券と帳簿価額を通算して損益を計算すること)の必要はありません。

 つまり、20年前から保有しているA社株の単価は200円のままで、含み資産(帳簿上の資産の価値が、会社の資産の価値を上回っている場合の価値の差)として温存できます。信託形式で取得したA社株は簿価1000円として売却時の税務計算を行うことになります。

政府が「甘い蜜」に対して与えてしまったお墨付き

 加えて88年1月の「特金・ファントラの決算計上の弾力化」で低価法・原価法の選択性が採用されました。原価法を採用すれば、取得した銘柄が値下がりしても評価損を計上する必要はありません。値上がりした銘柄だけを売って売却益を計上すればよいという、うまい話になります。当時の大蔵省が特金・ファントラの活用を奨励したようなものです。

 通常、企業は信託銀行に信託投資をしますが、株式・債券投資の運用は証券会社の社員に一任することを「営業特金」と呼びます。通常は事業会社と法人担当社員の間の一任契約となるケースが多かったといえます。

 ただ、営業特金は証券会社の手数料稼ぎの対象となり、運用成績の上がらないことが多く、そこで損失補填とか利回りの保証とか、好ましからざる話が出てきます。多額の損失を抱えた特金を多く持つ証券会社は、損失の表面化を嫌って、いわゆる「飛ばし」(企業が保有する評価損を抱えた有価証券を一時的に第三者=他社に転売すること)を行います。その典型例が「山一證券」だったのです。

 特金とファントラを合わせた残高は1987年末に30兆円、89年末には47兆円と急増していて、当時の売買動向を見ても、生保・損保と銀行の買い越しが急増していました。

 特金・ファントラは当時の機関投資家にとってとても魅力的な仕組みで、手を出さなかった企業は株主から「なぜやらないのか」と責め立てられるほどでした。ただ、今となっては、バブル崩壊後の様相からも「甘い蜜には毒がある」ということができるでしょう。

プラザ合意とバブル相場

 アメリカ国務省発表の対日本国赤字は、1983年に216億ドル、そして翌84年には368億ドルと急増しました。対ドル円相場は85年2月13日の263円65銭の底値をつけたあと、徐々に円高が進んでいました。73年2月から上昇期にあった景気は85年でピークを迎えました。

 そうした環境の中で、株式相場の物色は内需関連株が中心となり、金融・不動産・通信・電力・ガスなどの株が買われました。

 1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5会合が開かれ、ドル高是正のための協調介入で合意がなされました。これが「プラザ合意」です。同年9月20日のドル/円相場は242.00円、3連休明けの24日は230.10円。その後、円高が加速し、1987年12月31日には121.85円、88年11月25日には120.67円となりました。

 ドルで日本株に投資した米国の年金は、為替相場だけで2倍の儲けになったことに加えて、株価も上がりました。日銀は円高による景気後退や国内経済を懸念し、公定歩合を引き下げ、政府も積極的な景気対策を行いました。

 公定歩合は1987年2月の5%から5回の引き下げで2.5%となり、89年5月までこの水準を維持します。円高・低金利・原油安のトリプルメリット関連株が買われたのも、この頃です。

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バブル相場の最終局面へ

 1987年12月末の時点で、日本も西ドイツも公定歩合は2.5%でした。第1次世界大戦後の狂乱インフレの記憶が残る西ドイツは1988年10月19日に金融引締めに転じ、同日、ニューヨーク・ダウ平均は下落率22.6%と過去最大の下げ率となり、世界に連鎖していきました。

 それに連動して、日経ダウ平均は3836.48円安、下落率14.9%と暴落しました。これが世に言う「ブラックマンデー」です。

 西ドイツはその後も1988年に2回、89年に2回、0.5%ずつの公定歩合引き上げを実施し、4.5%としました。この間、日本は89年5月まで、2.5%の低金利を維持し、株価も1カ月の調整を経て、反騰に転じました。そしてこのあと、バブル相場は最終局面に向かいます。

 このように、経済の実態と乖離したバブルは、実は「特金」と「ファントラ」という2つの要素が大きな立役者となり、バブル前夜には政府がそこにお墨付きを与える形になっていました。そして、プラザ合意を経た円高と低金利を背景にしながら、読者のみなさんもご存じのように、崩壊へと進んでいくことになるのです。

※次回はバブル崩壊後とその後の日本経済について取り上げます。


■ 山下 裕士(やました・ひろし)
 フィデリティ投信 前相談役。大学卒業後、1960年に大阪屋證券(現・岩井コスモ証券)に入社。証券アナリスト業務に従事した後、1978年にエフ・エム・アール・コープ東京事務所(フィデリティ投信の前身)に転職し、資産運用・企業調査業務に従事、長くファンドマネジャーを務める。資産運用の世界では例外的なほど長期にわたる経験を持つ数少ないプロフェッショナルの一人であり、驚異的な運用成績とともにその企業調査手法や市場への視点は、プロの投資家・アナリストたちからの尊敬を集める。フィデリティ投信の相談役などを務めた後、2019年に退任。

 

山下氏の著書:
伝説のファンドマネジャーが見た日本株式投資100年史