年金の繰下げ受給は、日本年金機構によれば、1カ月遅らせるごとに0.7%増えます。75歳まで待てば84%増。70歳なら42%増です。
数字だけ見れば、これほど増える仕組みはそうありません。
ところが、実際に繰下げを選んでいる人はごくわずかです。厚生労働省「令和6年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」によれば、繰下げの割合は老齢基礎年金で2.6%、老齢厚生年金で1.9%。繰上げ(老齢基礎年金10.1%)のほうがはるかに多い。
84%増という条件を、97%以上の人が使っていない。なぜでしょうか。この差を、利回りという物差しで見ていきます。
繰下げは「5年分を払い込んで、上乗せを一生受け取る商品」
70歳まで繰下げるとは、どういうことか。
これは、65歳から69歳までの5年分の年金を受け取らないかわりに、70歳以降の年金が42%増える、ということです。
年金は一般的な金融商品ではないですが、これは見方によっては金融商品の形をしています。つまり、5年かけて払い込み、その後は死ぬまで上乗せ分を受け取る。つまり保険のようなもので、払込額は「もらわなかった5年分」、リターンは「増えた42%分」という考え方です。
この形になっていれば、利回り(内部収益率、IRR)が計算できます。年金を制度としてではなく、商品として評価するということです。
損益分岐は、何歳から受け取っても「11年11カ月」
利回りの前に、もっと単純な計算をしておきます。累計額がいつ並ぶかです。
70歳繰下げなら、我慢した5年分を42%の上乗せで取り返します。5 ÷ 0.42 = 11.905年。受給開始の70歳から数えて11年11カ月後、81.9歳です。
75歳繰下げなら、10年分を84%で取り返します。10 ÷ 0.84 = 11.905年。こちらも11年11カ月後、86.9歳。
待つ年数/ 増額率/ 元が取れるまで/ 損益分岐年齢
- 70歳繰下げ: 5年/ 42%/ 11年11カ月/ 81.9歳
- 75歳繰下げ: 10年/ 84%/ 11年11カ月/ 86.9歳
何歳まで待っても、元が取れるまでの期間は変わりません。 月0.7%という一定の率で積み上げる設計なので、当然こうなります。
つまり繰下げは、待つ年数が長いほど損益分岐の年齢だけが後ろにずれていく仕組みです。増額率が大きいから有利、という話ではありません。
利回りに直すと、75歳繰下げは男性▲2.1%
では、お金の時間価値を考慮した利回りではどうなるか。
計算の前提として、何歳まで生きるかを置く必要があります。ここで使うのは平均寿命ではなく、65歳時点の平均余命です。65歳まで生きた人は、若いうちの死亡リスクをすでに通り抜けているので、平均寿命より長く生きます。
厚生労働省「令和7年簡易生命表」によると、65歳の平均余命は男性19.68年(84.68歳)、女性24.52年(89.52歳)。平均寿命の男性81.35歳、女性87.33歳より3歳前後長くなります。
この前提で計算した利回りが、次のとおりです。
70歳繰下げ(+42%)/ 75歳繰下げ(+84%)
- 男性(84.68歳まで): +2.19%/ ▲2.08%
- 女性(89.52歳まで): +4.34% /+1.64%
男性が75歳まで繰下げると、利回りはマイナスになります。これはなぜかというと、損益分岐の86.9歳に、平均余命の84.68歳が届かないからです。
一方、女性は70歳繰下げで4.34%。これは資産運用としてかなりの水準です。同じ制度が、男女で評価が割れます。
個人向け国債と並べてみる
では、ここまで見てきた繰り下げの利回りとそれ以外の金融商品と比べてみましょう。
元本が減らない国の商品という点で、個人向け国債が近い位置にあります。
2026年10月募集分の税引後利率は、財務省の発表資料によれば固定5年が1.9044715%、変動10年が1.6335425%、固定3年が1.6494795%です。
利回りを順番に並べてみる
- 70歳繰下げ・女性 +4.34%
- 70歳繰下げ・男性 +2.19%
- 個人向け国債 固定5年(税引後) 1.90%
- 個人向け国債 変動10年(初回・税引後) 1.63%
- 75歳繰下げ・女性 +1.64%
- 75歳繰下げ・男性 ▲2.08%
70歳繰下げは男女とも固定5年を上回り、75歳繰下げはどちらも下回ります。
逆算すると、70歳繰下げが1.90%に並ぶのは84.2歳まで生きたとき、75歳繰下げが並ぶのは90.1歳まで生きたときです。
※なお、年金に課される税・社会保険料を考慮すると、実際には累進の税率と保険料が影響するので、手取りベースの利回りは上記記載の数字より下がります。また、個人向け国債の利率は税引後で並べているので、この比較はやや年金に有利に働いていると見ておく必要があります。
※国債側の利率の決まり方は「固定5年と変動10年、なぜ期間が長いほうが利率が低いのか」で、資産全体のなかでの置き場所は「個人向け国債は預金の代わりか?」で整理しました。
75歳まで生き延びた人で計算すると、話が変わる
ただ、ここまでの計算には一つ見落としがあります。
75歳まで繰下げるかどうかを実際に判断すべきなのは、75歳の時点で生きている人です。65歳時点の平均余命で評価するのは、65歳で決断する場合の見方にすぎません。
令和7年簡易生命表では、75歳の平均余命は男性12.24年(87.24歳)、女性15.88年(90.88歳)。65歳から見た84.68歳より、2年半ほど先です。
この前提で計算し直すと、こうなります。
65歳時点の余命で評価/ 繰下げ到達時点の余命で評価
- 70歳繰下げ・男性: +2.19%/ +2.82%
- 70歳繰下げ・女性: +4.34%/ +4.52%
- 75歳繰下げ・男性: ▲2.08%/ +0.25%
- 75歳繰下げ・女性: +1.64%/ +2.28%
75歳繰下げの男性は、マイナスからわずかなプラスに転じます。
繰下げは、65歳で10年分をまとめて決める必要がありません。1カ月単位で、そのつど止められます。生き延びるたびに、残りの期待値が上がっていく。 ここが、繰下げという仕組みの一番おもしろいところだと思います。
元機関投資家イズミダの視点
繰下げを利回りで測ると、見えてくることが二つあります。
ひとつは、これが長生きに対する保険だということです。
上の表は、利回りが死亡年齢に強く依存することを示しています。死亡年齢別に並べると、70歳繰下げは80歳で▲2.3%、85歳で+2.4%、90歳で+4.5%、95歳で+5.6%。早く亡くなれば損、長生きすれば得。これは投資の損益というより、長生きという事象に対して支払う保険料と保険金の関係に近い。
そもそも保険は、期待値で買うものではありません。困る事態を避けるため、つまりリスクヘッジのために買うものです。長生きして資産が尽きることが怖いなら、期待利回りが国債に届かなくても繰下げを選ぶ理由はあります。逆に、資産が十分にあって長生きリスクを自分で負えるなら、65歳から受け取って運用に回す選択も合理的です。
もうひとつは、この判断は他の資産と切り離せないということです。
繰下げを選ぶというのは、5年分または10年分の年金を「繰下げという商品」に投じることです。その間の生活費は、別の資産から出すことになります。つまり繰下げの判断は、手元の金融資産をどう取り崩すかとセットです。
運用の世界で言えば、資産配分、つまりアセットアロケーションの話です。年金という終身の収入と、取り崩していく金融資産。この二つのバランスをどう置くかという設計があって、その結論として繰下げるかどうかが決まります。増額率が何%かという話は、その後にきます。
※期待リターンを置いて配分を決める考え方は「年利5%という前提は妥当か?」で整理しました。
繰下げを選ぶ人が1.9%しかいない理由も、おそらくここにあります。84%増が魅力的でないのではなく、待っている間の生活費をどう用意するかという問いに、先に答えられないからだと思います。
最後に、計算の前提と注意点を書いておきます。
本記事の利回りは、年金を年1回・各年末に受け取るものとして計算した概算です(実際は偶数月の年6回)。月次で計算しても結果の差は0.02%ポイント以内でした。年金額は名目で一定とし、マクロ経済スライドによる改定は織り込んでいません。また税・社会保険料は考慮していません。死亡年齢は平均余命で固定しており、実際には人によって大きくぶれます。
制度面では、加給年金額と振替加算は繰下げによる増額の対象外で、待機中は受け取れません。在職老齢年金で支給停止される部分も増額されません。配偶者がいる方では、これらが利回りを無視できない幅で押し下げます。
繰下げの可否や金額は個別の加入歴で変わります。実際に判断される際は、年金事務所や「ねんきんネット」でご自身の試算を確認してください。 本記事は一般的な情報提供であり、特定の選択を推奨するものではありません。
数字の時点は、個人向け国債が2026年10月募集分、生命表が令和7年簡易生命表、受給状況が令和6年度です。