ドル円相場が163円台に達する歴史的な円安を受け、7月31日には日米両当局が異例の協調円買い介入を発表。相場は一時155円台まで急激に円高方向へ押し戻されるなど、市場は大きく揺れ動いています。
しかし、こうした政策介入による一時的な変動を除けば、市場が抱える本質的な課題は変わっていません。
かつて日本円は、世界で危機が起きるたびに安全資産として買われる「有事の円買い」の代表格でした。
しかし近年は、中東情勢の緊迫化などで原油価格が上昇しても円は買われず、むしろ売られる展開が目立っています。一体なぜ、危機のたびに円が買われるというかつての法則は機能しなくなってしまったのでしょうか。この理由について、元機関投資家の泉田良輔氏が、15年間で積み上がった日本経済と為替市場のマクロ構造の変化から読み解きます。
この記事のポイント
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2011年の東日本大震災を機に、日本の貿易収支は赤字が定着する構造へと変化した -
デジタル赤字は拡大を続け、2030年には原油輸入額に迫ると試算されている -
日本の対外純資産は過去最高だが、主要債権国におけるシェアは47%から17%へ激減した -
アメリカがシェール革命で石油の純輸出国となったことで、「有事の円買い」の構図が完全に逆転した -
統計上の経常収支は黒字でも、キャッシュフローベースでは日本に資金が戻っていない
為替は相対評価 — 円を欲しい人と要らない人のバランス
為替相場の動きを理解する上で、まず押さえておきたい大前提があります。それは、為替レートは常に「相対評価」で決まるということです。
円安がどこまで進むのか、もう円高には戻らないのではないかという不安を抱く投資家は少なくありません。かつては1ドル80円台という超円高の時代もありました。あの頃は世界中から「円が欲しい」という強い需要があったのです。
泉田氏はこの為替の基本メカニズムについて、需要と供給のバランスだと説明します。
「簡単に言うと、円が欲しいっていう人が増えないと円高にはならない」
そして泉田氏は、その裏側も同時に見るべきだと言います。「コインの裏と表の関係でいくと、円を売りたい、円がいらないっていう人もいるわけなので、これのバランスなんですよね」
つまり、現在の歴史的な円安は、グローバルな金融市場において「円が欲しい」と思う人よりも「円がいらない(売りたい)」と思う人が圧倒的に多い状態が常態化していることを意味しています。では、なぜ日本円はそれほどまでに魅力のない通貨になってしまったのでしょうか。泉田氏は、その背景には日本経済の根幹に関わる大きなマクロ構造の変化があると指摘します。
構造変化①フロー:2011年を境に貿易赤字が定着
日本円の価値を語る上で欠かせないのが、国の「貿易収支」というフローの指標です。貿易収支とは、海外へ輸出して稼いだ金額から、海外から輸入して支払った金額を差し引いたものです。
社会科の授業などで「日本は貿易黒字大国である」と習った記憶がある方も多いでしょう。実際、日本は古くから電子機器や家電、自動車などを世界中に輸出し、そこで得た外貨で必要な資源を輸入するというモデルで巨大な貿易黒字を築き上げてきました。そして、巨額の貿易黒字がある国=外貨を売って自国通貨(円)を買う実需が強い国として、長らく円高トレンドの強力な背景となっていました。
しかし、この盤石だった構造に劇的な変化が訪れます。
上のグラフは1980年からの日本の貿易収支の推移です。1980年代から2000年代にかけて安定して黒字(上方向のグラフ)を計上していた日本ですが、ある年を境に赤字(赤色の下方向のグラフ)へと転落し、それが定着していることがわかります。
泉田氏は、このターニングポイントが2011年の東日本大震災だと指摘します。
「あの時から日本、変わっちまったんだよ」
震災で何が起きたのか。泉田氏は原子力発電所の停止を挙げ、「あそこから日本の原発、止まってんだよ」と続けます。
2011年の震災によって国内の原子力発電所が停止した結果、日本は電力を維持するために火力発電への依存度を急激に高めざるを得なくなりました。日本には化石燃料の資源がないため、これまで輸入しなくても済んでいた莫大な量を海外から買い付けることになったのです。この結果、2011年以降の貿易収支で黒字となったのはわずか3年(2016年、2017年、2020年)のみとなり、赤字が基調の国へと変貌してしまいました。
さらに厄介なのが、この構造が引き起こす「負のスパイラル」です。貿易赤字が拡大すると、輸入代金を支払うために円を売ってドルを買う動きが強まり、円安が進みます。化石燃料の輸入はドル建てで行われるため、円安になればなるほど輸入コストは膨張し、それがさらに貿易赤字を拡大させるという悪循環に陥っているのです。2022年には資源高と円安が重なり、過去最大となる約20兆円の貿易赤字を記録しました。
構造変化②新しい赤字:拡大し続ける「デジタル赤字」
「それならば、停止している原発を再稼働させて化石燃料の輸入を減らせば、かつての貿易黒字国に戻り、円高になるのではないか」
そう考える投資家もいるかもしれません。しかし泉田氏は、震災から15年が経過する中で日本の産業構造はさらに変化しており、単純に昔に戻るわけではないと指摘します。その最大の要因が、近年急速に存在感を増している「デジタル赤字」です。
私たちが日常的に利用しているサービスを思い浮かべてみてください。ネットショッピングならAmazon、メールはGmail、動画視聴はYouTubeやNetflix。これらはすべて外資系のサービスです。私たちがこれらのサービスに課金したり、企業がクラウドサービスを利用したりするたびに、日本から海外へとお金が流出していきます。これが「デジタル関連サービス収支の赤字(デジタル赤字)」です。
2014年には約2兆円だったデジタル赤字は、2024年には約6.7兆円にまで膨れ上がっています。個人のサブスクリプション料金などは数百円〜数千円と微々たるものに思えるかもしれませんが、国全体で見ると途方もない金額が流出しているのです。
さらに注目したいのが、今後の予測です。
原油及び粗油の輸入額とコンピュータサービス赤字の比較(2014-2030年/2026年以降は予測)3/9
出所:財務省「貿易統計」、日本銀行「国際収支統計(BPM6)」、経済産業省「第6回 半導体・デジタル産業戦略検討会議」試算を基にイズミダイズム作成
経済産業省の有識者会議の試算によると、デジタル赤字の主要な構成要素である「コンピュータサービス赤字」は、2030年には約8兆円に達すると予測されています。
比較として、日本の「原油及び粗油」(LNG等を含まない純粋な原油関連)の輸入額を見ると、2025年時点でおよそ9.6兆円です。つまり、あと数年でコンピュータサービスという一分野の赤字だけで、国を動かすエネルギーである原油の輸入額に迫る規模になるということです。なお2025年時点では原油の輸入額が約9.6兆円、コンピュータサービスの赤字が約2.2兆円と、まだ4倍以上の開きがあります。両者が接近するのはあくまで2030年に向けた試算上の話である点は押さえておきたいところです。
泉田氏はこの状況に対し、さらなるリスクを警告します。現在、アメリカの巨大IT企業はAIインフラの構築に向けて莫大な設備投資を行っており、キャッシュフローが悪化しています。彼らが収益を改善するために取る手段は「サービスの値上げ」です。しかも、外資系企業は自国のドルベースで価格設定を行うため、日本が円安になればなるほど、日本国内でのサービス価格は自動的に引き上げられます。
「15年前と比べると、仮に原発フル稼働して鍵回すかもしれないけど、そこは化石燃料のところがぐっと減るかもしれないけど、代わりに全然違うものが大きくなっている」
つまり、仮に原発が稼働してエネルギー輸入が減ったとしても、デジタル赤字という「新しい赤字」がその穴を埋めるように拡大し続けているため、日本の貿易・サービス収支が劇的に改善して円高に向かう道筋は見えにくくなっているのです。

