「死ね」が脅迫や侮辱にあたるかどうかという法的な話以前に、人の死を軽く見なすような言葉が今はあまりにも氾濫していることがこの主婦の罪悪感のなさを培ってしまったのではないかと思います。
筆者が育った家では高校生の時まで、「バカ」「死ね」「殺す」といった言葉を言ったら罰金制度が設けられていました。人を侮辱したり貶めたり死を連想させたりする言葉は、思っても絶対に口に出してはいけないというのが母の考えでした。筆者の母は「言葉は人や物事を生かすこともできるし、殺すこともできる」という言霊を、筆者たち子どもにしっかりと教育したかったのでしょう。
そんな環境で育ち、言葉の力を信じている筆者。そのため、最近よく耳にする「〇〇すぎて死ねる」といった表現にはとても強い違和感を覚えています。この表現が怖いのは、「嬉しすぎて死ねる」といったように、「嬉しい」「可愛い」「楽しい」などのポジティブな状態において、より多く使われているように見受けられるからです。
「死」という言葉が持つ痛みや苦しみ、悲しみ、恐怖への感覚を鈍らせていること、そして何の疑いや違和感、拒否感も持たずにこの表現を発信している人がとても多いことに、ある種の絶望やおぞましさを感じているのは、きっと筆者だけではないでしょう。
言語リテラシーを失っている大人は何をもたらすのか
犯行直後に犯人が自殺した、5月の川崎殺傷事件。そして7月の京都アニメーション放火事件。昨今の凶悪事件を見るにつけ、犯人たちの理不尽な犯行動機には強い怒りを抱くとともに、こうした「死」に対する一般的な言語感覚も少なからず影響している気がしてなりません。
SNSやブログを通じて誰しもが自分の思いを文字にして発信できる時代だからこそ、大人子ども問わず、メディアリテラシーとともに言語リテラシーを育んでいかなければいけないはず。日本語やビジネスマナー用語を正しく身につける以前に、「死」を彷彿とさせる言葉への鈍感さにもっと目を向ける必要性に気付かなければいけないタイミングにきているのではないでしょうか。
戦争を知っている筆者の祖母。祖母が生前、当時小学生だった筆者に言っていた「戦争は怖いけど、戦争を知らないことも怖い」の言葉が思い出されます。
秋山 悠紀