アナリストが気づいたポイント
NHKの朝の連続ドラマ小説「あさが来た」はフィクション扱いながら、背景などは史実に即した部分も多いです。幕末から明治にかけて激動した時代の、商家の事業継続のストーリーから、現代にも通じるヒントが垣間見られるかもしれません。
主人公の実家のモデルである三井家の本拠地は京都の中心地。幕末の激戦地のすぐそばです。
主人公の嫁ぎ先のモデルである大阪の加島家は、大同生命の源流となりました。生き残りにかけた当時の商売に対する考え方が大同生命に連なっているようにも感じます。
「あさが来た」のあらすじ
9月最終週から放映されているNHKの朝の連続ドラマ小説「あさが来た」。時代は幕末、主人公の白岡あさ(波瑠)は京都随一の商家である今井家に生まれ、幼い時からの許嫁である白岡新次郎(玉木宏)のもとに嫁いでいきます。
白岡家は大坂の両替商豪商・加野屋を家業としていますが、夫は家業への興味が薄く、それでも時代は明治に向かって大きく動き始めている・・・、そのような中でストーリーが進んでいます。
主人公のモデルは三井家出身の実在の女性実業家
主人公のモデルとなったのは、明治時代に活躍した広岡浅子という実在の実業家。嫁ぎ先を盛り返した後、日本女子大学の設立に尽力する人物でもあります。
実家の今井家は、出水(でみず)三井家がモデルです。三井家は、始祖の三井高利が伊勢(現在の三重)・松坂から拠点を移して以来、京都が本拠地です。その子孫たちが「三井11家」を構成するのですが、その1つの出水三井家が広岡浅子の実家です。
嫁いだ先は大阪の両替商
嫁ぎ先の白岡家は鴻池家と並ぶ豪商の家であり、加野屋という屋号で両替商を営んでいます。幕末の混乱を切り抜け、明治時代には加島銀行となります。
加島銀行本体は昭和恐慌のあおりをうけて廃業となりますが、加島銀行の流れを受け継いだ大同生命は現在にいたっています。
広岡浅子ゆかりの場所を訪れてみた
筆者は10月に出張で関西方面を訪れました。その際、空いた時間を使って、京都と大阪にある広岡浅子ゆかりの場所を訪れてみました。
京都編1~二条城近くから堀川を北上
「広岡浅子自伝」によると、出水三井家は京都の油之小路出水に居を構えていました。二条城の東側を南北に流れる堀川を少し北上した東側にあります。
この堀川は平安京造営時に開削された1200年以上の歴史を持つ運河です。この川沿いに北上すると西陣があるため、友禅染の水洗いにも使われていました。現在は遊歩道として整備されていて、朝のジョギングなどにはもってこいです。
写真1:堀川
写真を見ると、左側は大きな石が整然と積まれているのに対し、右側は小ぶりで不ぞろいな石が積まれています。
左側が二条城、右側が商家の地域だからなのですが、ここで大きく地域の線引きがされていたように感じます。同時に、出水三井家がこの堀川近くにあったのは、幕府や大名家との取引もあったからだと思われます。
京都編2~堀川のすぐ近くにある実家の出水三井家
二条城あたりからこの遊歩道を歩いてしばらく北上すると、出水橋までやってきました。目的地はすぐ近くのはずです。
写真2:出水通り
京都編3~思ったよりも細い油小路通り
まずは、自伝にある油之小路出水を探しました。写真の油之小路出水の交差点から見た油小路通りは、思ったよりも細い道でした。京都らしさのある昔からの住宅街といった雰囲気ですが、豪商が屋敷を構えるには細い道のように思えました。
写真3:油小路通出水
京都編4~現在ホテルになっている敷地跡
実は、出水三井家の敷地は広大なため、いくつかの住所地にまたがっていました。その敷地跡の一部は、現在ホテルになっています。一見すると、当時の面影は感じられません。ただ、ホテルの入口近くに無造作に置かれていた庭石は、もしかしたら当時のものなのかもしれません。
写真4:敷地跡のホテル
写真5:敷地跡の石
京都編5~近くには三井越後屋の京本店の跡地も
出水三井家の敷地から南東に歩いて7~8分のところに、三井越後屋京本店(ほんだな)記念庭園があります。松坂から京へ進出した三井高利は、最終的にこの地を京本店と定め、商品仕入れや江戸・日本橋の越後屋への指令を発する本社機能を置きました。
内部は非公開のため門は閉ざされていますが、その門には三井家の家紋が刻まれ、低い壁のむこうには鳥居の上部がうかがえます。三井家と三井グループの繁盛を祈願して祀られた神社があるようです。
明治以降は、三越京都支店として1983年の閉店まで存続し続けたとのことです。支店閉店後に敷地の一部を三井不動産が買い取り、庭園として保存しています。
三井広報委員会のウェブサイトによれば、この庭園の広さは往年の10分の1以下とありますので、この区画全体が京本店だったようです。
写真6:三井越後屋記念庭園の門構え
写真7:三井越後屋記念庭園外観
京都編6~幕末の動乱の現場のすぐそばにあった三井家
後で気づいたのですが、出水三井家から京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)まで歩いて7~8分のところにあります。
蛤御門と言えば、幕末に会津藩と薩摩藩の連合軍と長州藩が軍事的に衝突した「蛤御門の変」の舞台です。その際、後に「どんどん焼け」と呼ばれる広範囲にわたる火災が発生し、その荒廃が明治天皇の東京への行幸の要因の1つになったと言われています。
史実では、明治時代になると出水三井家は本拠地を東京の小石川に移し、小石川三井家と称されるようになります。
事業の本拠地が「蛤御門の変」という歴史的大事件の戦場のすぐそばにあった出水三井家と三井本家は、どのように立ち振る舞い、事業を存続させたのでしょうか。現代にも通じるビジネス上の知恵が詰まっているように思います。
大阪編1~嫁ぎ先の加島屋の敷地は今の大同生命大阪本社
次は大阪です。見つけにくかった京都の出水三井家の跡地に比べ、加島屋のあった場所はすぐに見つかりました。というのも、その跡地に現在の大同生命大阪本社があるからです。
愛知で設立された朝日生命(現在の朝日生命とは別)が経営難に陥った際、広岡家を当主に迎えて救済されたという経緯がありました。その後、1902年に朝日生命、東京の護国生命、北海道・小樽の北海生命と3社合併してできたのが、大同生命です。
現在の大同生命大阪本社のビルは下層部分が独特なデザインになっています。建て替えられる前は、ウィリアム・ヴォーリズが設計して1925年に竣工した大同生命肥後橋ビルでした。その外壁の一部は大阪本社ビルの駐車場入り口にひっそりと保存されています。
写真8:大同生命大阪本社
写真9:旧ビルの外壁
大阪編2~大同生命大阪本社では主人公と嫁ぎ先にまつわる特別展示を開催中
この大阪本社では、現在、「大同生命の源流 加島屋と広岡浅子」と題した特別展示(入場無料)を行っています。
広岡浅子の生涯だけでなく、加島屋の事業についての説明もなされています。福沢諭吉の父親が中津藩の担当者として加島屋に出入りしていたこととか、長州藩にも新撰組にも資金を供給していたことなど、当時の資料とともに、いくつもの興味深い話が紹介されていました。
アナリストとしては、「加島屋の財務分析」にどうしても目が向いてしまい、「収入の多くが貸付利子の収入」「貸付の原資はほぼ自己資本」といった内容に、いちいち反応してしまいました。
大阪編3~嫁ぎ先の振る舞い方は、リスクへの対応の仕方のヒント
ドラマではちょうど、明治新政府が立ち上がるかどうかといったところを進んでいます。
新撰組が資金を借りに来たり、期限がきたのに一向に返してくれない藩に返済を迫ったり、新政府から資金を出すように言われてどうしようか頭を悩ませたりしています。ベースにあるのは、「家をつぶさない」ためにどうするかを必死で考えていたということです。
時代の激動の真っただ中で、どのような嗅覚を持ち、どのように対応するか・・・。不確実性(リスク)への対応の仕方は、リスクをビジネスとする保険業を営む大同生命に連なっているのかもしれません。
【2015年10月29日 藤野 敬太】
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