スマホやパソコンを使うことで、「方向感覚が前よりも鈍くなった」「漢字が思い出せなくなった」とはよく言われます。テクノロジーがものすごいスピードで発展していく中で、スマホなどのデジタル機器に囲まれて過ごすことで、われわれ人間は、具体的にどう変わっていくのでしょうか?
多くの人は、そうした変化は「遺伝」によってもたらされると何となく考えています。でも、オックスフォード大学のコンピューターサイエンス学教授で、英国トップクラスの人工知能(AI)研究者であるナイジェル・シャドボルト氏は、「生きていくための情報やルールを次の世代に伝えるのは、『遺伝』より『文化』のほうが速い」と話します。
同氏は、経済学・社会政策のエキスパートであるロジャー・ハンプソン氏との話題の共著『デジタル・エイプ』の中で、ヒトが持つ「あとの世代に情報を伝える、遺伝よりも速い仕組み」について触れています。同書から、われわれ人類が短期間で劇的に繁栄した理由をひもときます。
道具を使うのは人間だけではない
動物の能力と人間の行動の間に厳密な境界はない。私たちの間で利他的行為や自己犠牲と見なされるものは、動物の母親が子どもに対して取る行動にしばしば見られ、「利己的な遺伝子」という比喩で完全に理解できる。つまり、母親が死んで子どもを生かすほうが、母親の遺伝子が生き延びる可能性が高い場合があるのだ。
道具を使う動物は多い。ささやかな使い方だが、その動物にとっては極めて重要かもしれない。鳥は巣をつくる。野生のチンパンジーはいくつかの道具を使い、その能力をさらに引き出すこともできる。ほかの動物も非常に広範囲にわたって道具を使う。
実際、ほかの種での道具の使用や模倣による学習は、「道具を使うことは、実は人間に特有な能力ではない」という主張の例証になってきた(もちろん、そこに人間の特徴がいくつかあることでは識者の見解は一致しているが)。確かに、私たち固有の特徴は一目瞭然である。社会生活をし、コミュニケーションをする能力は、私たちが持つ奇跡の要素だ。特に、絶えず行われている「ほかの人間の裏をかこうとする計略」は人間にしか見られない。
チンパンジーにも見られる「文化的な知識」
スイスにあるヌーシャテル大学のティボー・グリューベル教授は、現存する類人猿の中で私たちに最も近い関係にあるチンパンジーとボノボを対象にして、それらの動物自体と、それらを通じて人類についてわかることを研究している。
次に紹介するのは、グリューベルの初期の研究プロジェクトに関する、大学のウェブサイトの記述である。
「私は『ハニートラップ実験』という野外実験を考案し、ウガンダのいくつかのチンパンジーのコミュニティーで実行した。その結果から、チンパンジーが丸太に開けられた穴からハチミツを取り出そうとするときに『文化的な知識』を使うことが明らかになった。特に、自然環境では食物を手に入れるために木の枝を使わない『ソンソ集団』と呼ばれるコミュニティに属するチンパンジーは、通常は水を集めるときに使う行動であるリーフスポンジング(木の葉を噛んで柔らかくし、それに液体を染み込ませて採取する方法)を応用して穴からハチミツを取り出した。そのときからいまに至る私の研究テーマは、『チンパンジーの認知能力がどのように文化的知識に影響されるか』である」
動物の道具の使い方から多くのことが学べるのは明らかだ。しかし、ホミニン(ヒト族)のうち、われわれホモ・サピエンス以外の種が絶滅して以来、「広範囲にわたる複雑な道具の使用」が、私たちだけの際立った特徴になっているのも明白である。私たちの言語や道具・知識・記憶は、人間性の本質的な要素だといえる。
私たちのガジェットやデータベース、バーチャルエコノミーはいま、すごい速度で変化し、賢くなっている。これは、長い目で見れば、脳の配線を手始めに、私たちの生態まで変えるかもしれない。私たちが人間の脳の持つ驚くべき可塑性を正しく理解するようになったのは、ごく近年のことだ。いまの幼児は、親が同じ年頃に使っていたのと違う形で脳を使っている。しかし、遺伝学の新しい知識で介入すれば別だが、生まれたときの子どもの脳については、これからの200~300年間はおよそ同じままで、ごくゆっくりとしか変わらないだろう。
ゲーマーの頭の神経回路は遺伝するか?
一方、個人一人ひとりの脳は、いま起きているように、その人の周りの環境が可能にする、あるいは要求する新たな形に変わるだろう。ゲーム好きな若者は、間違いなく、趣味に合うように神経系を発達させる。それは現実に起きていることであり、古い考えを持った親たちの偏見ではない。ゲーマーの脳は脳内のソフトウェアを発展させ、ゲームの中で高速で登ったり、走ったり、殺したりするのに適した神経経路をつくり上げる。
ゲーマーは、自分の神経学的な変化を子どもたちに遺伝として伝えることはない。だが、これから何十年かのうちに、「ネットワーク化された世界」で成功するのに役立つ個人の特性は、配偶者を探す上で大きな価値を持つようになり、あとの世代に出現する可能性が高くなるだろう。発達神経科学のあらゆる知見が示唆するのは、これから何百年かの間に、私たちの遺伝子全体や、生まれたときの神経系、私たちの生態が、環境が与える試練やチャンスに対応するように変化することである。
あとの世代に情報を伝える、遺伝よりも速い仕組みを私たちは初めから使ってきた。私たちは、生きていくための情報やルールを「文化」の中に埋め込む。人類は、学習したことを伝える独特な能力を持っている。そのおかげで、信じられないくらい能率的な情報伝達が可能になり、私たちは比較的短期間で種の頂点に上り詰めた。カリフォルニア大学のフランシスコ・J・アヤラ教授は、スペイン系アメリカ人の哲学者・進化生物学者であり、ドミニカで司祭をしていたこともある。彼はこう主張する。
「文化的適応が生物学的適応よりも優れているのは、そのほうが速いからであり、管理ができるからであり、世代から世代へと累積されていくからである」
テクノロジーが進んでも生物学的な人間はあまり変わらない
だからといって生物学的適応が終わったと考える理由はない。私たちが性的パートナーを持つこと、出生率と死亡率の差、もともとある遺伝子の突然変異は、依然として、「特定の環境で成功するのに最も適した者が未来の世代に遺伝子を伝える可能性が高い」ということを意味している。アメリカとイギリスの21万人を対象にした最近の調査では、この進化的変化の明らかな兆候が表れた。寿命が長い人々は、アルツハイマー病や大量喫煙に関係した遺伝的変異が見つかる頻度が低かったのである。そこでこんな疑問も生まれる。私たちの脳も進化しているのだろうか? 未来の世代になると精神的な差が何か現れるのだろうか?
言語と文化という形の「ヒト全体の共有知識」は、25万年前のアフリカにホモ・サピエンスと共に出現した。ホモ・サピエンスは道具を持っていたが、デジタルプロセッサーやどこからでもネットに接続できる環境はなかった。ホモ・サピエンスの20万年にわたる歴史の中で、テクノロジーの変化は加速したが、大型類人猿(現存する種では、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボに加えヒトを含む)としての私たちの基本的生態はほとんど変わらなかったし、次の100年でも変わらないだろう。
もし私たちがディスプレイで2100年の世界を見られたとしたら、人間を取り巻く環境はエイブラハム・リンカーンが見た場合と同じように新奇なものに感じられるに違いない。だが、人間そのものはいまとあまり変わらないように見えるはずだ。
2100年の人間は、たぶんちょっと見ただけではわからないような、興味深い機能増幅デバイスを身に付けているかもしれないが、それは私たちがすでに持ち歩いているものの拡張版に過ぎない。また、病気を避けたり、傷を修復したりするために遺伝学的な処置を受けているかもしれないが、いずれにせよ、2100年の人間は、時を経た私たちの姿だというのはすぐにわかるだろう。
(翻訳:神月謙一)
■ ナイジェル・シャドボルト(Nigel Shadbolt)
オックスフォード大学コンピューターサイエンス学教授、同大学ジーザス・カレッジ学寮長。1956年ロンドン生まれ。ティム・バーナーズ=リーと共同で「WWW(ワールドワイドウェブ)」の仕組みを開発。英国を代表するコンピューター科学者で、最先端の人工知能・ウェブサイエンス研究者の一人。王立協会、王立工学アカデミーならびに英国コンピューター協会にてフェローを務めるほか、英国コンピューター協会では会長も務めた。2013年に科学と工学への貢献により「ナイト」の称号を贈られる。
ナイジェル・シャドボルト氏の著書:
『デジタル・エイプ テクノロジーは人間をこう変えていく』
ナイジェル・シャドボルト(Nigel Shadbolt)