ホンダとヤマハ発動機が原付バイクの提携を発表

10月5日にホンダ(7267)とヤマハ発動機(7272)が、国内における原付一種二輪車の領域に関する共同リリースを発表しました。

原付一種とは、「排気量50cc以下のエンジンを搭載する二輪以上の乗り物」と定義されていますが、実際のところは、50cc原付スクーター(通称「原付バイク」「原チャリ」)を意味します。なお、50cc原付スクーターの市場は、海外にはなく、日本国内のみと考えていいでしょう。

今回発表されたのは、1)現行の50cc原付スクーターのOEM供給(ホンダからヤマハ発動機へ)、2)次期モデルの共同開発、及び、OEM供給(ホンダからヤマハ発動機へ)、3)原付一種クラスの電動二輪車普及に向けた協業、の3点です。

かいつまんで言うと、ヤマハ発動機は50cc原付スクーターの生産から撤退し、ホンダ製品のOEM供給を受けるということです。

減少が続く国内2輪車市場、原付バイクはピーク時の1割未満に

国内の2輪車(オートバイ)市場は、減少傾向に歯止めが掛かりません。ピークだった1982年には329万台を記録しましたが、2015年は約37万台強に止まり、リーマンショック直後に激減した2009年、2010年を下回る需要となりました。戦後の“焼け野原”時期を除くと、恐らく、過去最低の数字と考えられます。

その中でも、とりわけ原付一種の落ち込みが顕著です。ピークの1982年には約278万台強でしたが、2015年は約19万台強へと、実に▲93%以上の大幅減少となっています。この35年間で原付スクーターの市場が消失したと言っても過言ではありません。

両社の提携は単なる不採算部門のテコ入れ策なのか?

今回、ホンダとヤマハ発動機が原付一種に関する協業に踏み切ったのは、普通に見れば、“市場規模が縮小したから、不採算部門の見直しの一環で両社が合意した”となるでしょう。

しかし、両社が50cc原付スクーターで協業することは、過去の経緯を知る人々にとっては、青天の霹靂であり、様々な複雑な感情が入り混じっているのではないでしょうか。

35年前に繰り広げられた「HY戦争」を振り返る

今回の提携を考える上で、両社が繰り広げた「HY戦争」を振り返る必要があります。「HY戦争」とは、1978~1983年にかけて国内二輪車市場で繰り広げられた、ホンダ(H)とヤマハ発動機(Y)による熾烈なシェア争いのことです。

当時、国内トップシェアを誇ったホンダに対して、第2位のヤマハ発動機が安売り攻勢を仕掛けたのが発端と言われています。

特に、原付一種(通称“原付バイク”)においては、正しく“仁義なき戦い”が行われていました。生きるか死ぬか、やられたらやり返せ、やられる前にやれ、という世界です。この「HY戦争」を超える乱売合戦は、他の業種も含めて、後にも先にも起きていないと言い切れます。

具体的には、HY戦争のピーク時(1982年頃)、原付バイクが「3台で99,800円」「3台買うと1台おまけ付き」「購入者紹介で1台無料プレゼント」という、今では信じられない販売が行われていました。

ちなみに、当時の原付バイクの“定価”は平均7~10万円くらいです。“まさか、そんな馬鹿な”と信じられないかもしれませんが、50歳代以上の方なら“あー、そんなこともあったね”と良く覚えているはずです。

HY戦争の戦後処理に苦しんだ両社、ヤマハ発動機は経営危機に

こんな常軌を逸した販売競争が長続きするはずがありません。1983年、ホンダがヤマハ発動機を完膚無きまでに撃沈して終結します。

敗れたヤマハ発動機は、巨額の赤字を計上するなど深刻な経営危機を迎え、当時はまだ珍しかった大リストラ(大量の人員解雇)を余儀なくされたのです。一方、勝者のホンダも、その後は長きにわたって二輪車の在庫調整に苦しみました。“勝者なき終戦”というところだったのかもしれません。

今回の提携は原付バイク市場の存続に向けた過去との決別

その両社が今回の提携に踏み切ったのは、乱売競争で市場縮小を招いてしまった過去との決別であり、日本独自の商品である50ccスクーターを後世に残すための施策のような気がします。

特に、HY戦争で敗れて企業存続の危機に直面したヤマハ発動機は、その思いが強いのではないでしょうか。筆者の考え過ぎかもしれませんが、HY戦争で“戦死”した先人たちの複雑な心境を思いやるばかりです。

 

LIMO編集部