ついに1歳を過ぎ、「マンマ」「はーい」など言葉らしい言葉を話すようになった頃、夫があまりにも喋らないことに対して「このままでは言語習得だけではなく、父親との愛着形成や明るい家庭の空気感のためにも、無口な夫は子どもにとってよくないのでは?」と不安がピークになりました。

そこで筆者は夫に「いつも家であんまり喋らないけど、子どもとはもっと話そうと思わないの? 無口で暗い家庭になっちゃうよ」と言い、それとなく夫の考えを聞いてみることに。

すると夫は「女の人みたいに子どもと仲良く触れ合ったり話しかけたりするのはやっぱり苦手。普段からぺちゃくちゃ喋ることはできないけど、子どもへのしつけで大事なことはちゃんと言葉で言うし、行動で示すよ」という返答でした。

そして続いたのは「子どもは父親とは距離があっていいんだよ。母親のことを大好きでいれば」という答え。いかにも昭和的価値観を持つ夫らしい返答でしたが、筆者は「やっぱり無口は直してはくれないのか…」と、今後の家庭生活をより不安に思ってしまいました。

無口だからこそ生じる発言の重みをポジティブに捉える

筆者の“無口な夫”へのモヤモヤが拭われない中、子どものお昼寝中に夫婦で昼食を食べていた時のこと。筆者が作ったうどんに対し、夫がぼそっと「このつゆ、きのこの出汁が効いてて美味しい」と言いました。

数日前に無口なことについて夫婦で会話したため、夫も少し気を遣って発言したのでしょう。しかし、普段は食事の感想を言うこともあまりない夫のこの発言に、筆者は少しモヤモヤが晴れていきます。

無口だからこそ、発した言葉に重みがあることに気付かされたのです。そしてそれは、子どもが小学生くらいになった時に親の威厳として効果を発揮するのかもしれない。子どもの言語習得や父親との愛着形成の点で心配になっていたのではなく、ただ筆者が「夫ともっと話したい」と寂しがっていたのではないか、と。

そして夫は無口であると同時に、筆者に対する不満も一切言わないことにも気付きました。夫婦げんかの時も、筆者が夫にバーっとまくしたてるように不満を言うことから始まっています。夫は無口だけれども、筆者を縛ることなく自由にいさせてくれていることを忙しい育児生活の中で忘れていたのです。

そうしたことを考えているうちに、「もっと喋ろうよ」「会話の絶えない家庭にしようよ」と、筆者が理想の家庭像を押し付けすぎることは、夫にとっては割と苦しいことなのかもしれない、と思い改めるようになりました。結局、夫にもっと喋って欲しいと願うのは、ないものねだりをしているだけに過ぎないのでしょう。

夫婦の在り方は夫婦の数だけあります。他人と比較し、「これって自分だけ?」と不安になることもありますが、筆者は夫が無口だからこそ子どもに与える良い点や上手なコミュニケーションを探っていく楽しさを前向きに考えていこうと思います。

富士 みやこ