ほとんどの人にとって「ブラック校則」は必要のないものでしょう。しかし、現実の学校に広くはびこっていることを考えると、何かしらの理由があるはずです。

そこで、個人的なことではありますが筆者の高校時代の校則を振り返りたいと思います。

筆者の通った高校は服装の指定がなく、私服で通学が可能でした。一般的な公立中学から、服装など全体的に自由度の高い私立の高校に入学したときの衝撃を今でも覚えています。

服装に関しては、「なんちゃって制服」という、制服らしい格好をしていた生徒が多かったですが、筆者はワンピースで通学したこともありましたし、男女ともにジーパンなどのラフな格好で通う生徒もいました。ハロウィンのときには多くの生徒が仮装した状態で授業を受け、文化祭や体育祭のときの服装も、クラスでTシャツを統一するなど、決定権は学生にありました。

服装について公に決められていたのは、部活動の服のまま授業を受けないという1点だけだったと思います。つまり、授業中にユニフォームの生徒はいませんでしたし、ジャージ姿の人はいましたが、部活動中の服装とは着替えていた人が多かったと思います。その他、先生の采配で、授業中は帽子や動きの妨げになる大きめのコートは着用しないなど個別に指示されることはありましたが、服装や見た目のせいで学校に通えないということはまずありませんでした。

髪色や化粧についても、筆者の高校ではおおよそ黙認されていました。部活動を引退し、進路が決まったタイミングには、髪の毛をかるく染めたり、メイクに挑戦する生徒もいました。かくいう筆者も、高校3年生のある日、突然、のりやテープを使用して二重になるアイプチをして登校したのですが、クラスメートから「変わった!」と言われた程度で、先生から咎められるといったことはありませんでした。

これらの筆者の経験を踏まえると、ブラック校則の問題の所在は、ルールの細かさよりも、厳しく制限しなければならない学校の状況や、そうすることで生徒が均一化されると考えている大人にあるのかもしれません。

たしかに、ルールには一線があり、その境界を曖昧にしてしまうと、度を過ごす懸念は捨てきれません。未成年の行動が、大人の手の届かないところにまで及んで問題が起きた場合、責任を問われるのは確かに学校や教師です。しかし、高校生(あるいは中学生)らは、それほどに思考力がなく、自己決定力がないのでしょうか。

映画『ブラック校則』の結末から、その疑問を読み解きたいと思います。

大人が議論するべきこと、学生が考えるべきこと

主人公・創楽(佐藤勝利)がブラック校則の廃止を訴えかける理由は、茶髪がかった地毛を指摘されていた希央(モトーラ世理奈)のことが純粋に「好きだから」でした。

好きや嫌いの感情で、現実にはびこるブラック校則を検討する議論は進まないかもしれません。「好き」を原動力にしたことを考えると、やはり高校生もまだまだ未熟な面があるということでしょう。

しかし、創楽がうったえかけるシンプルな気持ちこそが等身大の高校生だと感じさせるからこそ、作品からは大人が前向きな議論を進めるべきなのだという重いメッセージが浮かび上がります。

筆者の高校の自由な校風について、教師が「自由とは"なんでもOK”という意味ではない。ルールを守るからこその自由だ」と話していたことがあります。

今一度、大人の立場にある我々が、学生らを守るための規則として校則の内容を改め、学生たちにルールのあり方を考えさせる余白が必要なのではないでしょうか。その余白ができたら、学生の立場にある人も、何が必要で何がダメなのか、考える取り組みをはじめましょう。

それぞれの学校が持つ現在の校則が、高校生らの生活を制限し、規則という名目のうえで1人ひとりのルーツや人権を軽視、無視しかねないなら、やはりそれは「ブラック」なのだということでしょう。

【参考】
『ブラック校則』 公式サイト
 

藤枝 あおい