Tの両親は教師で、幼少期は厳しく育てられたらしい。その教育の中で、『わたしを理解してくれる人は誰もいない』という底知れぬ孤独感を抱いていたようだ。

『わたしなんて、この程度だから』が口癖で、周囲の「そんなことないよ」なんて言葉で拭えないほど、自己肯定感が低いようだった。というよりも、そもそも彼女の中には自己肯定感なんて存在しないのかもしれない、とさえ思うことが多々ある。

物心ついた時から否定され続けていたら、そうなってしまうのは当然といえば当然だ。筆者の息子は療育施設に通っているが、療育の必要性や効果などに疑問を抱いてしまうことがある。しかしTは『「療育施設に通う」ことに意味がある。本人が困っていることに周囲が気づいていて、それに対処しようと一緒に努力してくれる。これが支えになる時がきっとくるから』と私を励ましてくれた。

もし彼女が幼少期に周囲が気づいていたら、彼女の中の不安感・孤独感は少しは緩和されたのだろうか。

診断名の威力…生きづらさの軽減へ

ADHDと診断された後は、自助活動グループへの参加や薬の服用で「困りごと」が減ったという。その後昼の仕事に就職したが、以前のようなミスも少なくなったようだ。薬の影響で過集中になってしまうこともあるようだが、主治医や同じADHDの仲間に相談しながら日々の生活を送っているという。

まずは診断を受けることが、生きづらさを軽減するために必要なことなのだろう。その上で周囲の理解も必要だ。

昨今、職場などで発達障害者への対処に苦慮する場面が増えているという。今後は「どのように共生するか」という課題に向き合わなければならないだろう。

「抽象的な表現は避け、具体的な指示をする」「視覚優位があるなら、紙などに書いて伝える」など、人により症状が様々であるように、接し方のコツも多様だ。これらが共有され、個々の職場で工夫されるような仕組みづくりが求められている。

参考資料:

精神保健福祉資料』(厚生労働行政推進調査事業費補助金(障害者政策総合研究事業(精神障害分野))精神科医療提供体制の機能強化を推進する政策研究」より)

尾藤 ちよ子