日銀総裁の記者会見を、最後まで見たことがある方はどれくらいいるでしょうか。1時間を超えることもある質疑応答は、率直にいって退屈です。しかし、その退屈な会見のなかの一言で、為替が動き、住宅ローンの金利が変わり、株価が上下します。なぜ、ただの「言葉」にそれほどの力があるのか。その答えに理論の土台を与えた二人の経済学者が、今年のノーベル経済学賞に選ばれました。10月30日の日銀会合を前に、中央銀行の「言葉」の値段について考えてみましょう。

「ノーベル賞は自分に関係ない」は本当か

10月12日、今年のノーベル経済学賞が発表されました。受賞したのは、米スタンフォード大学名誉教授のロバート・E・ホール氏と、コロンビア大学教授のマイケル・ウッドフォード氏です。

評価されたのは、景気の波をならす「安定化策」の土台となる理論です。従来の経済モデルは、物価と失業の関係のような統計上の相関に頼っていました。ところが1970年代の石油ショックでは物価と失業がそろって悪化し、その前提が崩れます。そこで両氏は、家計や企業といった「ミクロの土台」の上にモデルを組み直しました。その理論は今、各国の政府や中央銀行が取り組む政策の基盤になっています。

こう聞いても、「自分の暮らしには関係ない」と感じた方が多いのではないでしょうか。

しかし、その理解はおそらく間違っています。

今月29日と30日、日本銀行は金融政策決定会合を開きます。30日の午後には総裁が記者会見を行います。そこで語られる言葉の一つひとつが、変動型の住宅ローンの金利や、預金の利息や、海外旅行で使う円の値段につながっていきます。

そしてその「言葉の使い方」の理論を築いた一人が、今回の受賞者なのです。

中央銀行の最強の道具は「金利」ではない

中央銀行の仕事とは何でしょうか。多くの人は「金利を上げ下げすること」と答えるはずです。

ところがウッドフォード氏の研究が示したのは、身もふたもない姿でした。金融政策が効くかどうかは、今日の金利そのものよりも、人々が「この先、金利はどうなるか」をどう予想するかで決まる。だから中央銀行は、金利を動かす前に「言葉」で人々の予想を導くことになります。いわゆる「フォワードガイダンス」です。株式市場や資本市場で生きる人間にはよく聞くキーワードです。

ノーベル賞を選考したスウェーデン王立科学アカデミーも、発表文でこの点をはっきり書いています。

家計や企業は先を見て行動する。だから政府や中央銀行が政策の計画を伝えれば、その将来への見方に働きかけ、経済を正しい方向へ動かせる

――という趣旨です。

この理屈は、日銀の最近の動きを見るとよく分かります。

日銀は9月18日、政策金利を年ゔ1.25%程度に引き上げました。6月以来、3カ月ぶりの利上げです。声明文には、今後も「引き続き政策金利を引き上げ」ていくという一文が入っています。

ところが、この利上げで市場が大きく騒ぐことはありませんでした。前回の利上げは「事前に市場で完全に織り込まれていた」という認識が今でもされていると思います。

「利上げが、ニュースにならなかった」ーーこれを失敗だと思う方もいるでしょう。しかし実際は逆です。日銀がこれまでの言葉で市場の予想を先に動かしていたからこそ、当日は何も起きなかったのです。うまくいった金融政策は、たいてい退屈なのです。

企業も「言葉」で株価を動かしている

たとえば、こんな場面を想像してみてください。

ある会社の決算説明会。壇上の社長が、過去最高益を誇らしげに説明しています。会場の空気は明るい。ところが質疑応答の最後、社長が「来期はやや慎重に見ています」と一言だけ付け加えます。翌日、その会社の株価は下がる。過去最高益なのに、です。

株式市場を見てきた人なら、思い当たる節があるのではないでしょうか。株価は今期の利益ではなく、来期以降の見通しで動きます。そしてその見通しを左右するのが、経営者の「言葉」です。企業が出す業績予想は、いわば企業版のフォワードガイダンスといえるでしょう。

では、なぜ人は他人の言葉を信じて、お金を動かすのか。

経済学には「シグナリング」という考え方があります。相手の心の中は見えない。だから人は、相手が発する「信号」で判断する。ただし、その信号が信じられるのは、嘘をつくと高くつくときだけです。業績予想を何度も外した社長の言葉は、やがて誰も聞かなくなります。

中央銀行も、まったく同じ構造のなかにいるのです。

言葉が効くのは、信じられている間だけ

ここで、少し不都合な真実についての話をしなければなりません。

日銀は利上げを続けています。ところが10月12日の東京市場で、ドル円は1ドル=158円台でした。金利を上げれば円は高くなるはず――という教科書どおりには、事は運んでいません。

理由は単純です。為替は、日本の金利だけでは決まらないからです。市場が見ているのは、米国の金利がこの先どうなるかとの「比較」です。今週は米国の物価指標の発表も控えています。日銀の言葉は、市場が耳を傾けるたくさんの声の、一つにすぎないのです。

もう一人の受賞者、ホール氏は1978年、家計の消費について意外な結論を示しました。消費は将来の所得への期待に左右される。しかしその期待は、政策の変更のような予測できない情報で揺れ動く。だから消費の動きは前もって予測できない、というものです。ウッドフォード氏はそこから一歩進み、だからこそ政府や中央銀行が今後の方針を示して期待に働きかければ、経済を安定させられると結論づけました。企業も家計も市場も、動かしているのは「今」ではなく「期待」なのです。

だとすれば、中央銀行にとって最も大事な資産は何か。それは金利でも、資産規模でもありません。「この人たちは言ったことをやる」という信認です。

信認は、貯金に似ています。ためるのには何年もかかるのに、使い果たすのは一瞬です。そして信認を失った中央銀行は、何を言っても市場を動かせなくなる。言葉の威力が大きいぶん、その弱点もまた大きいのです。

元機関投資家イズミダの視点:「結果」ではなく「言葉の差分」を読む

決算を読むとき、数字と同じくらい大事なのが、前回から「言葉がどう変わったか」です。つまり私がいつも言っている「変化」が重要となります。「堅調」が「堅調を維持」になっただけでも、そこには意図があります。中央銀行の声明文も同じです。

10月30日には、会合の結果に加えて、経済と物価の見通しをまとめた「展望レポート」の基本的見解も公表されます。利上げがあるかないか。それ以上に注目すべきなのは、「引き続き」「確度」といった言葉が、前回からどう書き換えられたかでしょう。市場は結果よりも、その差分に反応するはずです。

では、私たちはどうすればいいのか。

変動金利で住宅ローンを借りている方にとって、日銀の会見は「来年の利息の予告編」のようなものです。当日の見出しだけでなく、総裁が「次」についてどんな言葉を選んだかを確かめる。それだけで、家計の備えは一歩早くなります。
ノーベル賞の理論は、遠い世界の話ではありません。それは、会見場で語られる一言をどう聞くかという、私たち自身の問いに届いています。

市場はいつも答えを出してくれます。ただし、問いが正しければ、ですが。

参考資料

泉田 良輔